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「亜未さん、珍しく仕事振ってこなかったな」  更衣室のロッカーからコーヒーで汚れたシャツを出し、置きっぱなしにしてある紙袋に入れた。  ロッカーは正社員もバイトも関係なく一人に一つずつ割り振られているものの、制服のない会社のせいか、滅多に使う者はいない。  おかげで、妃奈子の独り言を聞かれることもない。  ロッカーの扉の内側についている鏡に自分の顔を映す。少しメイクが崩れている。ファンデーションのよれを整えで、薄いピンク色の口紅を塗った。 「あまり派手にすると、亜未さんに何か言われそうだもんな」  メイク道具をバッグに入れ、ロッカーの扉を閉じる。  妃奈子は更衣室の扉に手をかけた。  エレベーターで一階に下り、正面玄関へ向かう。  自動ドアの前で周りを見回したけれど、亜未の姿は見えない。  もしかして、外にいるのだろうか。  外へ出ようとしたとき、後ろから肩をたたかれた。 「ちょっと待ちなさいよ。一人で行こうとしてんじゃないわよ」  甘ったるい声は地声らしい。振り返らなくても亜未だとわかった。  足を止めて、横に並んだ亜未へ視線を向ける。 「ご、ごか」  誤解ですよ、と言いかけて言葉が詰まった。  カールされた髪のまとまりが良すぎる。アイラインは夜用なのかネイビーが引かれ、アイシャドウも同系でグラデーションになっている。口紅は深いレッドだ。  気合入りすぎだろう。 「あっ」  朝、スルーした疑問に気づいた。  妃奈子は亜未と歩幅を合わせ、オフィスの入ったビルを出る。 「亜未さん、バーに行くのはいいんですけど。三崎さんに誤解されたりしませんか」  髪をわざとらしくなびかせて歩く亜未は通りを歩く男性陣の注目の的だ。  亜未は口をとがらせる。 「誤解ねえ。してくれると嬉しいけどねぇ」  サラリーマンたちが亜未を振り返っていく。彼女はそれが気持ちいいのか、横目で彼らに目線を送っている。  妃奈子には、亜未の尻を振った歩き方が気になって彼らが見てきているとしか思えない。  信号まで来て足を止める。赤信号だ。 「亜未さん、三崎さんと付き合ってるんじゃ」  信号が青に変わり、サラリーマンやOLが次々と幹線道路を渡りだす。  亜未も妃奈子の一歩先を歩く。顔を少し後ろへ向けてきた。 「付き合ってないわよぉ。どんなにアプローチしても大勢いる遊び相手の一人でしかないわ」  横断歩道を渡り終えて、左へ折れる。  妃奈子たちの会社があるオフィスビル群の前の道と同じく、きちんと整備された歩道には花壇があり、色とりどりの花が咲いている。 「三崎さんって軽い人なんですか」  亜未は首にまとわりついた髪を手の甲で後ろへ流す。妃奈子を見る目は丸くなっていた。 「えぇ、知らなかったのぉ。ということは、まだ声がかかってないのね」 「声がかかってない、とは」  亜未に視線を向けると、その先に、今朝、オフィスビルの前から見たレンガ造りの建物が目に入った。 「あ、ここですね。2階へ上がる階段は、と」  建物を通り越したところにある路地を入ってすぐの場所に階段があった。細い階段は人が一人通れる幅しかない。  妃奈子が一段目に足をかけたとき、亜未がぶつかってきた。そして、そのまま先に階段を上がり始める。 「三崎くんって独身の女はすぐ食事に誘うのよ。バイトに入って1ヶ月くらいよねぇ。まだ誘われてないって、あなたどれだけ魅力ないのぉ」  後から階段を上がっていっているせいで、亜未があからさまに見下ろしてくるのが癇にさわる。  妃奈子は腰の後ろで拳を握った。 「そうなんですね。あんなに魅力的な人に食事に誘われたら舞い上がりそうです。誘ってもらえるようにアピールしてみようかな」  本当に三崎が誘ってくれるなら、啓太のことを探れるかもしれない。  一緒に食事をすることを考えると反吐が出そうだけれど、亜未に向かって無理やり口角を上げる。  2階に先に着いた亜未が『barペリエ』と書かれた看板が立つ扉を指さしている。 「ふん、誘われたら赤飯でも炊いてお祝いしてあげるわ。この私でも1回誘われて、それっきりなんだから」  悔しそうな表情を見せている。 「このドア、開けなさいよ。入ったら、あのイケメンに私をちゃんと紹介するのよ」  妃奈子は冷めた目になりそうなのをこらえて、目尻を下げるよう努めた。  全面が木でできた扉で中をのぞくことはできない。  妃奈子は重い扉をゆっくりと引いた。
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