第三話

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第三話

 昼休憩のついでに足を運んでくれる人たちで一時的に混み合っていた会場内も、13時をすぎるとだいぶ落ち着いていた。  僕と同じように風景写真家として活動している友人と互いの近況報告をしていたら、視界の右端、少し離れたところでふわりと白いものが舞った。  動くものに反応してしまうのは本能だろうか。それとも、無意識にでも彼女を探してしまっていたからなのだろうか。柔らかそうな白い生地に、淡い黄色の花柄のワンピース。ひまわり。柄は主張しない程度にぼかされている。オフホワイト寄りの白い地面で、気持ちよさそうに咲いていた。  ぺたんこのバレエシューズで、ふわりふわりと会場内を歩く彼女は、穏やかな浅瀬の珊瑚礁を気ままに泳ぐ魚のようだった。歩くたびに、ゆるいウェーブの髪がわずかに揺れる。写真の前で立ち止まり、一呼吸おいてからそっと見上げる。全ての動作がゆっくりと柔らかく、まるで彼女の周りにだけ無重力が存在しているかのようだった。  僕の存在に気づくと、またあの犬のような人懐っこい視線をこっちに向けて、右手を小さく振ってきた。僕は軽く会釈をした。てっきり近寄ってくるのかと思っていたが、彼女はそのまま次の写真へと移っていった。なんとなくつかみどころがなく、予定調和を崩される。もう一度思う。自由気ままに泳ぐ、魚のような女の子だ。  受付に戻りペットボトルの水で水分補給をしていると、ふと後ろに気配を感じた。振り返ると彼女が立っていた。バレエシューズのおかげで、足音を立てずにここまで気付かれずに近寄ってこれたらしい。猫みたいな一面もある。 「やっぱりこの写真が一番好きかな」 そう言って彼女は、ポストカードを空に透かせるようにして眺めた。室内なのに、眩しそうに目を細める。 「奥さんは会場にはこないんだ?」  もちろん、彼女は何も知らないのだ。だから聞くのだ。悪気はない。入り口の花束にだって美咲宛の木札が立っている。それならばそんな質問も出てくるだろう。彼女は何一つ悪くない。そうとはわかっていても、次の返事をすることに傷ついている自分がいる。 「彼女はもういないんだ」  死という言葉を使わずに、その事実をどうやって伝えるかを一瞬のうちに頭の中でめぐらせ、出てきた一言だった。的確に答えられていないというのはわかる。とらえようによっては、離婚とだって受け取れる。ただ、死別の事実を直接的な言葉で口に出すことにためらいがあった。やはり僕はまだ、彼女の死を受け入れられていない。  じっとこちらを見つめてくる。全てを見透かしているかのような冷静さを持った瞳。同時に何かを考えているような目だが、それ以上は質問してこなかった。ふっと視線をそらせると、肩をすぼめて少しはにかんだような笑顔を見せた。その表情からは、仕方ないなぁ、そんな言葉が聞こえてきた。彼女が実際に言ったのかどうかは分からない。彼女の表情を見て、僕が頭の中で勝手に再生した言葉かもしれない。でも、口に出さないだけで心の中でそう言ってくれたのではないかと感じた。そう思いたかった。そんなふうに、この世の中のたいていのものごとを、ふわりと包んでしまうような、そんな力が彼女にはあるような気がした。  その瞬間、肩から力が抜けていくのがわかった。ペットボトルのふたが閉まっていなかったら、僕は受付の床を水浸しにしていたことだろう。
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