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第一話
芯のとおった強い日差しを乱反射させ、街路樹がその緑を主張する。窓一枚へだてた向こう側には、見ているだけで肌が痛くなるような灼熱が広がっていた。
今年の夏は猛暑となるでしょう。梅雨の終わりに聞いたお天気キャスターの言葉を思い出す。
しばらく画面と向き合ってはいたものの、諦めてノートパソコンを閉じた。
溶けた氷がグラスの中でひかえめに音をたてる。透明の層を作ったアイスティーは、いくぶん水嵩を増していた。
「あっ」
僕がグラスを手に取ると同時に、それをとがめるかのような声がした。目を向けると、一つ離れたスツールに座る女の子が、フルーツで盛られたパンケーキを写真に収めようとしていた。
スマホをお皿の前に、そして気持ち僕の方に向けたまま、上目づかいの視線を僕とスマホのあいだで行ったり来たりさせている。
何を求められているのか分からないまま、僕はアイスティーをひとくち含んだ。僕のアイスティーなのだから、飲んで文句は言われないはずだ。
水たまりのできたコースターにグラスを戻すと、カシャリと軽快なシャッター音が響いた。
「背景にそのアイスティーが必要だったの」
彼女は、グラスを指差した。
それだけ言うと、いいでしょ?というように首を傾げた。それは彼女に似合ったとても自然な仕草で、わざとらしさも、あざとさのかけらも感じられなかった。不意に、懐かしさが込み上げる。そういう人を、僕はもう一人知っていた。
スマホの画面を確認し、うんうんと一人で満足そうにうなずいている。
ゆるいウェーブのかかった柔らかそうな長い髪が揺れていた。年は僕より10歳くらい下、25か6あたりだろうか。小さくとがった鼻のせいで少し生意気そうにみえる。薄く、主張しないことでかえって存在感を持つ唇。なめらかで冷たそうな白い肌。
彼女は、スマホをバッグにしまうとパンケーキの載ったお皿をスライドさせ、僕の真横に移動してきた。なれなれしいけれども憎めない雰囲気をまとった子だった。
「何書いてるんですか? お仕事? それともブログかなにか?」
仔犬が初めてハリネズミを見る時のような興味深げな目でA4の用紙を見つめている。
「仕事。原稿を書いてたけど、今はこれ以上書けそうにない」
閉じていたノートパソコンをもう一度開き、原稿が保存されてることを確認してから電源を切ると、テーブルに備え付けられたコンセントから充電器を引き抜いた。
「もう少し電気泥棒していけばいいのに」
終わりにかけて声が小さくなる。引き止めたいのだろうか。彼女には悪いが、こんなところで知り合いでもない人間とくだらない話をして時間を潰したくはない。
散らかしていた他の書類をひとつにまとめ、僕はカフェを出る準備を続けた。紛れていた写真展宣伝用のポストカードを引き抜いて一番上に置くと、突然彼女が肩を寄せてきた。瞬間、ふわりと懐かしい香りに包まれる。かいだことのある匂い。いつかの記憶をくすぐる匂い。
「素敵」
彼女は、息を吐くような静かな声でそう呟いた。その言葉は、今この瞬間に魂を吹き込まれて芽吹いた、ひとつの新しい表現方法のように新鮮だった。どんな装飾も必要としなかった。ひだまりで作られた暖かさの中で、そっと慈しまれ、安心感を与えらているような、そんな言い方だった。
彼女はポストカードを手に取り、空に透かせるようにして眺めた。
君が亡くなる1年前の夏、2人で行った離島の砂浜で撮った写真だ。ちょうど干潮を迎えた時で、波の引きによって作られた砂紋が大きく広がっている。遠浅の海は、手前から奥にかけて透明から淡い水色へとグラデーションを作り、君はその中に一人たたずんでいる。ワンピースから覗く君の裸足と、なめらかな白い砂浜が同化する。いつか、この風景の中に溶け込んでしまいそうだ。ある日この写真を見た時、君がいなくなっていたりはしないだろうか。不安になる。今すぐにでも君の手を取りたい。その体を引き寄せ、どこにも行かないように、しっかりとつかまえていたい。そんな衝動に駆られる。一番大切な写真なのに、君を失って以来、その景色からは君の儚さばかりが浮き彫りになる。
「付き合ってる人? 奥さん? それともモデルさんとか?」
彼女の声で我に帰る。
「写ってる人?」
寝起きの一言目みたいに上手く声が出なかった。
彼女は目だけでうなずく。柔らかい黒い瞳は、凪いだ海のように穏やかだ。
「妻」
僕はひと息ぶん、間を空けて答えた。
奥さんかぁ。彼女は独り言のようにつぶやいて、ポストカードの君を指でなぞる。
「海が似合う人だね。彼女が写ってなかったら、この風景はこんなに美しくならない。彼女は海の魅力を引き出す人で、あなたは彼女の魅力を引き出す人。どっちが欠けても生まれなかった風景だね」
写真になった君を、こんなにも柔らかい眼差しで見つめる人が、僕以外にいる。その事実に救われる自分がいた。
彼女はポストカードを裏返し、明日から開催される写真展の案内に目を留めた。僕の作品を気に入ってくれているカメラメーカーの営業担当者から、やってみないかと声を掛けてもらったのだ。都内でも規模の大きいギャラリーで、ここから歩いて10分もかからない。妻をなくしてから、初めて開催する個展だ。
「楽しみにしてます」
少しはにかむような笑顔からは、それが社交辞令ではないことが伝わってきた。
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