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「桜を見て自分のやらかしを思い出してる暇があるんなら、そいつが確かにそうして過ごしていたこと。雅志と一緒に桜を見ていたことを思い出しなさいよ。あんたにまで忘れられて、諦められてたら、それこそ本当にそいつの存在が世の中から消されちゃうじゃない」
涼原さんは、いたって涼しい顔で、さらりとそう言ってくれた。
「ここ最近の流行歌とかでさ。相手のことを想うなら、あえて『自分のことは忘れて幸せになってください』っていうのが尊いってもてはやされたじゃない? でもあたしはあいつのこと、忘れてなんかやらない。忘れないっていうのは、その姿が見えなくて実体としてそばにいなくたって、『これからも一緒に生きている』ってことだから」
涼原さんは、ふるふると顔を数度、横に振った。肩より少し長い黒髪が揺れる。いくつかは頭にのっかっていた桜の花びらが離れて、宙をふらふらと漂って、地面を目指して落ちていく。
「でも、あたしのことはどんどん忘れてもらって構わないけどね。これまでの人生であたしに関わった皆さんに、そんなにあたしを覚えていたいって連中もいないだろうし」
「自分には忘れたくない人がいるのに、自分のことは忘れて欲しいって……そういうの、ダブルスタンダードって言わない?」
「さっすが雅志さま、難しい言葉知ってるじゃない」
そんなに難しい言葉ってわけでもないと思う。ネットスラングの一種じゃないかなぁ。
彼女は成績が悪いとか地頭が悪いってわけじゃないんだけど、自分の興味のないことはそんなに調べない人なんだ。インターネットとか全然触れてなさそう。
「だったら僕だって涼原さんのこと、忘れてなんかあげないよ。例えば急に、君の姿が見えなくなったとしてもね」
「別にいいわ。忘れられるのと覚えていてくれるの、どっちがいいも悪いもないから。雅志のしたいようにしたら?」
桜を見たからって、自分の失敗なんか思い出すな。涼原さんはそう言ってくれたけど、僕は今でもそれに徹しきれなくて、桜を見るのはやっぱりちょっと苦手だ。どうしても、心が暗くなるのも罪悪感も止められない。
だけど、そればっかりではなくて。桜を見ている涼原さんやあの子の満足そうな顔も一緒に思い出せるようになったから……「嫌い」以外の感情でそれを見て、素直に「綺麗だなぁ」って思えるようになったんだ。
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