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『早く、早くっ!』
一度乗ったことのあるボートのオールを力一杯に回す。回転は速いが、水を上手くかけてないようでなかなか思うように進まない。目の前に麻央の車が止まった。焦りが頂点に達する。
「駆!」
麻央の声。その声を聞いた途端に、全身から力が抜けていくのが分かった。そして俺の体の中の違和感。
『やはり……俺と麻央は……』
運命の番なのだろう。今朝も抑制剤を飲んだ。ヒートはきっちり管理してあるのに。
大量の汗が冷や汗に変わる。真夏の太陽の下で俺の体だけ、氷風呂に入ったかのように冷たくなっていった。頭のてっぺんが痺れ、全身を覆い始める。指先まで痺れがきたというのに、俺の体の中心だけは何かを求めて熱く滾り始めた。
……ザン!
何か重いものが水に落ちる音に気がつき、目を開けるとボート乗り場に立っていたはずの麻央の姿がなくなっていた。
『帰った? 諦めて……くれた?』
薄く靄が覆ってきた頭の中で考える。これで麻央の追跡を逃れるのは何度目だろう。また引っ越さなければ。麻央の手が届かないところに。麻央が誰かのものになるのを気づかずに済むところに……。
『疲れた……』
やっぱり俺は麻央が好きらしい。でも麻央は家業を継ぐ身。許嫁がいると聞いた。麻央に相応しい可愛いΩ。白い肌で目が大きく、小さな頃から麻央の番になるべく育てられた、そんな男。
俺じゃない。サッカーボールを追いかけて、真っ黒な肌のこんな俺じゃつり合わない。力が入らない体を硬い木の床に預け、眩しい太陽を腕で遮る。そこで自分が涙を流していたことに気づいた。
『このまま……消えて無くなりたい』
小学生の頃が1番楽しかった。麻央やクラスの友だちとサッカーボールを追いかけて、些細なことで喧嘩して。
中学の時には部活に夢中だった。俺は自分をβと疑わなかった。どんどん背が伸びる麻央に嫉妬して、八つ当たりしてたっけ。3年の途中までは……。
高校からは逃げるのに必死だった。ヒートから、そしてあらゆるαから。麻央からも。
今の生活は気に入っていた。雅江おばさんを頼って、仕事も軌道に乗って。人間らしい生活が送れると思っていた。αからも、獣のようなヒートからも逃れられた気になって。
『でも、結局はコレ』
麻央は何をしに来たのだろう? 実家には誰にも教えるなと釘を刺しておいた。特に麻央には。
涙が流れる。それは悔し涙なのか、悲しくて泣いているのか自分でも分からなかった。
「駆!」
耳元で水をはね除ける音がしたかと思うと、麻央の声とともにちっぽけなボートが左右に揺れた。
「あ、わ、わ……」
頭の中が真っ白になり、起こした体を少しでも麻央から離れるように麻央とは反対側へと動かした。
「クッ! この香り……! あ、待てっ!」
落ちるつもりはなかった。この湖に落ちて、泳ぎの得意な麻央から逃げられるはずがない。でも……もう……俺は。
ゴボゴボと自分の口から溢れる空気を見た。苦しい。でもここで我慢をすれば、全てから逃れられる。今までずっと逃げたいと思ってきたこと。俺がΩであること、そして麻央が忘れられない気持ち。
静寂が辺りを包む。明るかった水面近くから静かに落ちていくのが分かる。ギラギラした太陽の光が遠くなっていく。その輪を黒い影がサッと横切った。
それを見たのが最後だった。
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