迷妄

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迷妄

 気が付けば、青年は淡々と歩を進めていて、その道はいつもの散歩コースだった。右手首に巻き付けた革紐を握り締め、左手の腕時計を見る。午前4時。春分も遠いこの時期では、日の出はまだまだ先だった。  家までの道程をぼんやりと思い出しながら、青年はふらふらと深夜の路地を歩く。年季の入った街灯が点滅し、近頃よく見かける野良猫が鳴いていた。  突如、何かに右手をぐっと引かれ、野良猫の方へ駆け出した。不思議と嫌な気分ではない。野良猫は臆せず、不気味なほどにゃあにゃあと鳴き続ける。野良の割に毛並の艷やかな、奇妙な黒猫。瞳が街灯に照らされ、金色に妖しく光った。  ――次の瞬間、青年の足下から地面が消えた。踏み外すはずのない場所で足を踏み外し、青年の身体が大きく傾く。  青年はそのまま、頭も打たずに奈落へと墜ちていった。  ◇◇◇◇  気が付けば、青年は淡々と歩を進めていた。握り締めたリードの先には、愛するシェパード。シーナと名付けて溺愛している。自分が日中出歩くのが難しいので、シーナの散歩はいつも深夜か明け方だ。  節電のため照明を落とした自動販売機の前を通り、鬱蒼とした公園跡地に差し掛かる。近道のため、ここを突っ切るのが常だった。  青年は左手首の腕時計を見る。午前1時。青年にとっては、まだまだ宵の口だった。  誰かが青年の左腕を掴み、急かすように引っ張った。愛犬もつられるように駆け出して、青年も仕方なく走り出す。運動不足のせいかすぐに息が上がり、ひゅうひゅうと喉が鳴り始めた。  待ってくれと、誰かに乞おうとした途端。青年は足を踏み外し、奈落へと真っ逆さまに落ちていく。道路で足を踏み外すなどありえないのだが。続いて、背中に激痛が走る。  ――暗闇へ墜ちる瞬間。青年の耳に、よく聞く猫の声がした。  ◇◇◇◇  気が付けば、青年の足は普通に歩を進めていて、その道はいつもの帰路だった。左手首の腕時計を見る。時刻は午前2時。暖かい手が、自分の右手を握っている。嗅ぎ慣れたシャンプーの香り。椎名と書かれた社員証。  闇に包まれた公園跡地に差し掛かり、急かすような声がする。不気味な雑木林の側を、青年は早足で通り抜けた。  もうすぐ、開けた通りに出る。そう青年が思ったとき。  背後から、ガサガサと怪しい音がした。繋がれた右手が強く引かれ、青年はそのまま走り出す。背後の不気味な音は徐々に近くなっていく。  もうすぐ、もうすぐ……  必死に走り、大きく足を踏み出した。その途端、青年の身体は大きく傾き倒れ込む。闇に沈み込むような感覚に次いで、激痛。右手はいつしか、冷たいものを握っていた。  ――呻く青年の耳に、にゃあ、と野良猫の鳴き声がした。
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