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外はバカに清々しい快晴であり、薄く牛乳を浮かべたような空が教室の窓の外に広がっていた。せっかくの好天を無下にするように、今日は体育の授業もなく、のんびりとした座学ばかりである。
痛くも痒くもない退屈が耐え難く思われ、後ろの席なのをいいことに、窓の外をぼおっと眺めたり、青色のシャープペンシルをくるくると回したりして、なんでもない時間が過ぎてしまうのをあくび交じりに待っていた。
ノートの片隅に先生の勝川の顔をちょろちょろと書こうと思い立ったが、目が合ってしまうような気がして、恐ろしくてやめた。
とかく暇であった。
うちの高校では、スマホの持ち込みも(公には)禁止されているゆえ、手元にあるのは文房具と少々のテキストのみである。机一杯に目いっぱいに散らかした筆箱の中身を一つ一つ丹念に観察することぐらいしか遣る方がない。
そんな具合で、ボールペンを無意味に分解してもとに戻したり、修正テープのねじを爪で回してみたりと手悪戯をしているうちに、消しゴムに目が留まった。
背丈は五センチ強で、使用面の方がゆるい弧を描いている。ところどころ頭が黒ずんでおり、底面の方はなぜか黄ばんで汚れている。年季が入っていると一目でわかる代物である。カバーは何度もハサミで短くしているため、ロゴが見切れてしまっている。
すっかり古びて緩くなってしまったカバーをすっと外してしまうと、存外に側面は綺麗な白色であり、触ると少しばかり粉の吹いているような感じがする。これを見て私は、真っ白いカンバスを思ったのである。
立てかけたカンバスは何色もつかずに、ただ自由に筆が走るのを待つ。それと同じように、この消しゴムのカバーの下に隠された真っ白の面には、描く自由が開かれていると感じたのである。
窓もドアも締め切って、換気の聞いていない教室には少しばかり暖かい倦怠が満ち満ちていた。そんな中で、私はこの授業の間で初めての興奮を覚えた。
適当なところにうっちゃってあった油性ペンを手にとって、キャップをゆっくりと外す。シンナーじみた鼻を衝くにおいがほのかに届いた。
丸い頭が出ている部分。どんな顔を描こうか、とほんの少し思考した。くるりとペンを一回しした。
まず縦棒を二本、適当な間隔をとって描き入れ、その上端少し下にまつ毛を付ける。そして消しゴムの地の色が変わる境界線の中点にぽつりと点を打って口とした。
これでどうだ、と少しその消しゴムから顔を離すと、そこにはおちょぼ口の女の子の顔が見事にあらわれた。
先ほど外したカバーをもう一度付け直すと、そのカバーに顔をうずめて、こちらを興味津々に見つめてくる少女の様ではないか!
(かわよい)
そう思わずにはいられなかった。素朴な印象ながら、均整の取れた顔立ち。けばけばしい所のない可憐さがたまらなく愛おしく思ったのである。
私の方を瞬きもせずにじっと。視線を浴びせる彼女に対して、不思議な愛着を憶えた。
見切れたカバーのロゴを思い出して「モノ子」と名前を付けた。
周りの誰にも聞こえないような、小さく低く詰まったような声で「モノ子」と呼びかけるが、彼女は不思議そうな顔をするばかりである。
電気スタンドの黄色い光だけ、いやに明るい部屋の中。書き損じた文字に少し苛立ちながら、筆箱の中を探った。六角の鉛筆の側面の、つるつるとした塗装面の感触をかき分けて、消しゴムのカバーの質感を探り当てた。
つまみ上げた消しゴムをノートに当てると、思いがけず目が合った。私はモノ子を手に取っていたのである。さかさまのモノ子が、これから自分が何をされるのか分かっていないような顔で私の方を見るのである。思わず私はノートからモノ子を離した。
(いけないいけない)
と思ってモノ子を机の上に置いた。モノ子を使うなんて……。
(ただ消しゴムを使うだけではないか)
机の上に立たせた消しゴムは、今まで使ってきた消しゴムと同一のものである。黒ずんだ彼女の頭の使用の跡が、私の行いを物語っている。
(私はこんないたいけな女の子の頭を自分のエゴのために削ってしまったのか……)
思わず心の中でつぶやいていた。全く意図せずそんなことが頭に浮かんできたことに驚いた。情が移っている。
モノ子を見ていると、図らずも温かい感情が膨らんでくるのである。はっきりとした実体をもたない、慈しみのこもった微笑が漏れるような思いが胸の内を浸すのである。自分ひとりで仕上げた自信作を、包みから取り出して眺めるような一種の自尊心か。それとも愛娘に向けるような無償の好意なのか。とにかく形を持たない愛の感情が染みついたように心から離れないのを感じざるを得なかった。しばらく彼女を見つめていた。
ふとノートに目をやると、中途で終わっている文章を発見した。すぐさま、勉強していたことと自分が書き間違いをしたことを思い出した。
消しゴムがないかなと机の上に目線を滑らせると、やはりモノ子しか見当たらないのである。そしてまた思考に落ちてゆく。
(使わないのはもったいないしな……)
そうモノとして捕らえてみても、視線が消えない。電気スタンドの光に照らされた彼女が、ずっとこちらを向くのである。半ば呪いのようであった。
(底の方なら使えるか……)
少し頭の中で想像してみる。ケースを上にずらして、お尻の部分をあらわにする。
――ここで私は、「お尻」という言葉を使ったことを後悔したのである。どの部分であっても、彼女の体の一部であることに、何ら変わりがないことに気づいてしまった。どこであってもモノ子なのである。
モノ子を手に取った。目線が逸れることはない。モノ子が消しゴムに染みついている。何をするでもなく、手でモノ子を弄っていた。
そうして、ふとモノ子の頭をつまんで、カバーからモノ子を引き出そうとした時、動悸が高まったのを感じた。緊張が走るとともに、何か羞恥と昂奮の入り混じった高揚を、モノ子の顔の下の、白い素肌がちらりと覗いたときに感じたのである。カバーを脱がせることに、確かに抵抗が現れたのであった。
慌ててカバーに手を掛けるのをやめて、机の上に、丁寧に彼女を立たせた。そして椅子の背もたれに、私は体を預けた。そのとき憶えた安堵とともに、私は予感していたことが事実であったことを知った。
モノ子は確かに、私の中で消しゴムではなくなっていた。
「モノ子」とつぶやくも、彼女は変わらずこちらを眺めるばかりである。
私は机の引き出しを開けて、新しい消しゴムを。顔の描かれていない消しゴムを取り出した。
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