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植物の生命力
繭子は、かれこれ30分ほど庭に生えた草と対峙していた。
草と言うには大きくなりすぎた感は否めないが、青々と茂った、繭子には名前も分からない草を園芸用のはさみで切り落としていた。
隣家や駐車場と隣接する小さな庭。
生い茂った花壇から太陽の光を求めるように枝を縦横に伸ばす姿には躍動感を感じ、人生をも励まされるようだ。
だが、容認するわけにはいかない、枝や葉が、人の往来を妨げてしまうし、雨の時にはしっとりとした雨粒を受けた葉は隣家の大変なご迷惑になってしまうからだ。
そもそも10年前にこの家を新築したとき、家の中の間取りにこだわり、外回りのことは急いで決めたものの、繭子は植物の管理は自分には難しいと申し出ていた。
手入れに割ける時間は取れないので、なるべくコンクリートを敷きたいと。
腕の中にはまだ一歳になったばかりの赤子を抱え、日々の生活をするだけでも精一杯。
十分に取れない睡眠時間に、自分のための時間を過ごすことすら頭から消えかけていた、そんな頃だった。
しかし夫は譲らなかった。
幼い子どもを植物を中心とした生き物溢れる庭で育てて行きたいという。
繭子にとっては、自分の手に負えない代物であっても、花は可憐だし、もともと生物学を専門としていた夫の意志を尊重すべきかと、家の玄関部分と、裏手の二箇所に、花壇が設置された。
最初の頃は裏の庭にサツマイモを植え収穫を楽しんだが、庭を楽しむよりも草抜きの苦痛が勝った。
それに夫は元々仕事人間で、庭に滞在する姿を見かけたことはごくわずか。
玄関側の花壇に夫がこだわって植えた、シンボルツリーのソヨゴ、鬼門によいと言われる南天を夫が愛でる姿を見かけたものの、伸びきった枝には興味はないようで、枝をかき分け急ぎ足で出勤していく。
そんな生活が、気がつくともう10年も続いており、子どもは二人になり、庭で遊ぶ年齢を超えてしまった。
それでも繭子は枝を切る。
年月を経た草なのか木なのか、その植物の幹はぐんと生長し、ホームセンターで購入した数千円のはさみでは簡単に切り落とせなくなっていた。
右と左の腕を力を込めて真ん中に寄せ、テコの原理を使ってどうにか切れる箇所を探す。
切っている間は夢中なので気がつかないが、後々腕が筋肉痛になり、手の震えが続くのも厄介だ。
なるべく根元を切ると、切る回数が減って助かるが、枝と葉のジャングルで根元を探す苦労、後からゴミ袋に詰める苦労もあり、最適解が見つからない。
一人でなく誰かとお喋りでもしながら行うと、こんな風にモヤモヤとした気持ちにはならないのかもしれない。
夫が大切に思っているであろう庭の緑を保ちながらも、伸びた箇所を整える、今まで常にそう思っていたが、今日の繭子にはなんだかもうどうでもいい気さえしてきた。
何年も素人の管理をしてきた花壇は、その場しのぎで細い枝や葉を整えてきたものの、根本付近には枝が密集していて、はさみを前に進ませることは困難だった。
夫の肝いりの植物は別にして、なにかのご縁で身を寄せ合っている花壇とはいえ、もう私が義理立てする必要もないのではないか。
毎年こんなに切っても切ってもどこからか芽をだし、枝を伸ばす植物の逞しさにこそ、私は見習うべきなのかも知れない。
繭子は思いきって、その草の一番根元の枝を切った。
硬く太くなりすぎて刃が立たないところ以外はどんどんと切った。
切っていくと、夫のお気に入りの南天がきれいに顔を出した。
繭子は、大切なことをまた、植物に教えられた気がした。
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