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「もうこのへんでいいよ」
再び走り出した自転車で会話もなく静かに座っていた紗綾がそう言ったのは、駅まであと五十メートルほどの場所だった。すぐ横には寂れた小さな公園があって、錆びた滑り台や鉄棒が長年使われないままじっと来客を待っている。
公園の中からバネ仕掛けのパンダが「こんなさよならで良いのかい?」とでも言いたげに俺を見つめていた。
なにか、なにか言わなくちゃ。
「……このまま改札のとこまでいけばいいじゃん」
「いいの」
紗綾は食い下がる俺を気にも止めず自転車から降り、前カゴから大きなバッグをぐいぐい取り出そうとして……バランスを崩した。
「わぁっ」
「危ねっ」
重いリュックに引っ張られて後ろに倒れそうになった紗綾を転ける直前に引き寄せると、顔を上げた紗綾の顔面が思ったよりも近い位置にあり、心臓がどきんと跳ねる。
「あ、ありがと……」
「お、おう」
目を合わせるのがなんだか気恥ずかしく、視線を彷徨わせている俺に、紗綾が言った。
「あのさ、廉が勝負に勝った時に言おうとしてた事、私なんとなく気づいてたよ」
「えっ?!」
驚いた俺の顔がそんなに可笑しかったのか、紗綾は思わず吹き出して、だけどすぐに真剣な顔になった。
「たぶん合ってると思うけど、ちゃんと言いなよ。私、もうこの町から居なくなるんだよ」
紗綾が俺にチャンスをくれているのは明らかだ。
これが、最後かもしれない。
言葉にする事を恐れている場合じゃない。
俺は、心臓が飛び出そうになるのを必死で押さえ込みながら慎重に口を開いた。
「俺、紗綾の事がずっと好きだった。付き合って欲しい」
言ってしまった。
恐る恐る紗綾の表情を窺うと、驚いた顔をしていた。
「思ってたのと違った……けど……」
紗綾の顔がゆっくりと近づいてきて、唇に、柔らかいものが触れた。
それはほんの一瞬の事で、気がついた時にはもう離れていた。甘いシャンプーの香りを残して。
紗綾は重いバッグを肩にかけると、俺をくるりと振り返った。
「これが答えだから。……じゃあ、向こうに着いたらまた連絡するね」
胸元で小さく手を振って、踵を返して走り出す。
俺は、それを、呆然と見送った。
○
帰りは、急な下り坂をブレーキもかけずに滑り降りる。
自転車がやけに軽く感じた。
真正面から風を受け止めながら、俺の頭の中では別れ際のあの一瞬が何度も何度もリフレインしていた。
「――うおおおお!」
空に向かって吠えた俺の雄叫びが、遠くを走る電車の走行音をかき消していく。
この夏は暑くなりそうだ!
後日、紗綾からこの日の事について「中学の頃に借りた漫画返してないの、怒られるんだと思ってた」とメールが届いて、俺は紗綾に返してもらってない物がたくさんあるのを思い出した。
まあいいか。これからもいつでも会いに行けばいいんだから。
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