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 嘘みたいな青がどこまでも続いていた。  僕は手足を動かすのも瞬きをするのも億劫で、ただ頭上の青を見上げることしかできない。唯一口から洩れる浅い呼吸だけが、僕が生命として存在していることを示している。  冷たいのかも熱いのかも分からない空気が、僕の胸を上下させる。  どうやってこの場に来たのかも、ここがどこなのかも、これからどうすればいいのかも分からない。よくあることだ、と頭の中で呟いた。 「……夢、か」  そう、夢を見ているのだ。単純なことだ。夢の中で夢だと認識すること、明晰夢とかいうんだっけ。  自分の手を見下ろしてみた。当たり前のようにそこに存在しているけれど、なんとなく何かが足りないような気がした。服装も地面も見覚えがあるようでなかった。  僕は雲一つない空の下、建物も道も無いまっさらな空間に一人佇んでいた。僕が知らない間に人類も文明もみんな滅んでしまったのだろうか、なんて静かに笑う。不思議と寂しさは感じなかった。 「……まあ、覚めないなら、それはそれで」  なんとなく呟いた声は、くぐもったような音で僕の耳に纏わりついた。自分の声が好きじゃないから、聞かないようにしているのかもしれない。都合の良い世界だなと思う。  そのとき、ふいに暖かな風が僕の側を吹き抜けていった。その風が運んできた匂いは記憶にこびりついているもので、僕は思わず身体を硬直させる。  ほんのりと甘い匂い。  彼女の――。 「夢だって、思ってる?」  心臓が震えた。夢なのにやけに実感を持って鼓動が早まった。  待ち望んでいた声。愛おしい声だ。 「悠くん」  優しく頬を撫でるような声が僕の名を呼ぶ。僕は唇を噛んだ。まただ。また君は気まぐれに僕の前に現れて、そして、消えていくのか。  僕はゆっくりと後ろを振り返った。 「……真夕美」  そこに立っている真夕美の顔は少しぼやけていて、記憶の中の彼女とうまく一致しない。服装も髪型もなんとなく曖昧だった。   夢の世界ではいつもそうだ。大切なものばかりぼやけさせて曖昧に映してしまう。何度も思い返し慈しんだ、彼女の顔でさえ。  だけど目の前にいる彼女は間違いなく真夕美だろうなという確信だけは、はっきりと胸を占めていた。  真夕美は少し首を傾げて微笑む。ぼんやりとした表情を見て、僕はなんだか泣きたい気持ちになった。こうしてだんだんと僕の中から、真夕美が消えていくのだろうか。 「もう会えないかと思った」  僕の震える声に真夕美は今度こそ声を上げて笑い、僕の隣に並んだ。甘い匂いがやけに強く鼻を刺す。 「少し歩こうよ。せっかく会えたんだから」 どこまでも都合よく優しい彼女の言葉に頷き、僕はゆっくりと歩き出した。 真夕美の歩幅は記憶よりも少し小さい。いつか彼女が動かなくなるんじゃないかなんて不安が頭をよぎり、僕は彼女の横顔をじっと瞳に焼き付ける。 曖昧な彼女の笑顔がこちらを向き、少しだけ笑みを深めた、気がした。
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