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入院
尿意を覚えて目覚めた時、傍らに置かれた腕時計は午前2時を指していた。
ベッド、室内の様子からして、会場で気を失った後、病院に収容されたのだとわかる。
ライトを点けると、備え付けの台に長男によるメモが置かれており、病院名と病棟名が記されていた。
明日になれば、誰かが来てくれるだろう。
再びベッドに横になると、あの時、口にしたテリーヌの味が甦ってきた。
きっと、蟹が使われていたに違いない。
甲殻類アレルギーの為、日頃から気を付けていたはずなのだが迂闊だった。
だが、式典の方は板谷がうまく仕切ってくれただろうから、心配ない。
そうしてゆっくり目を閉じると、機動隊時代の記憶が瞼をスクリーンにして再生されていった。
1967年、地元住民の声をなきものとし、国及び空港公団は、三里塚地域の土地測量に着手する。
理由は、将来、羽田だけでは世界各国からの旅客機の受け入れに支障が出るとされ、早急に、それに見合う新国際空港を建設する必要があったからである。
一口に三里塚と言っても、十余三、取香、天神峰、東峰、古込、木の根、東三里塚、天浪、駒井野など、幾つかの地区に分けられる。
さらに、歴代の当主がおり、居住歴が長い人々が多いとされる古村、及び、戦後移住してきた開拓者で構成される村落に分かれる。
戦後、新天地を求めてこの地区に流れ着いた人々は、農作物など育つわけがないと言われていた土地を、文字通り寝食を忘れて耕すことで、農地に生まれ変わらせた。
農民にとって、この土地は身体を張ってでも守らなくてはならない、聖地とも言える場所だった。
公団側の一番のミスはそれを無視し、ろくに説明もせずに空港建設に向けて走り出してしまった事である。
連日、札束で頬を叩くような土地売買の交渉が為され、空港公団と農民との間には、生涯に渡り修復不可能なわだかまりが生じる。
敷島は、自分が国交省の人間なら、土地を買い上げて終わりにせず、代用農地に出向いて、一から、開墾の手伝いをするだろうと考えた。
そうして、共に作業をするなかで、話をし、理解を深めていけば、無理矢理土地を奪い上げるような暴挙に出る事もなかったはずだ。
空港公団側の一方的な土地利用と、それに猛反発する農民側の闘いは、次第にエスカレートしていき、そうした中、あの語り継がれるT交差路での熾烈な抗争が起こってしまう。
その日、機動隊は空港公団の車両を通すよう指令を受けたが、主要道路は反対派によって封鎖されており、アジテーションの声はいつになく殺気立っていた。
敷島の部隊にも、次から次と火炎ビンが投げ込まれ、敷島はいつ誰が火だるまにされてもおかしくないという極限状態の中で「撤収」という命令が下される事をひたすら願った。
しかし、身の危険を感じながらも、装甲車から響く指揮官の指示は「進め」で、隊員達は、火炎ビンの雨が降る中を、もはや狂犬と化した反対派軍団のいる一帯に詰めよっていくしか道はなかった。
五分も経たないうちに、どこかで破裂音がし、火炎ビンが割れ、隊員が炎に包まれた。
そして、装甲車から、真っ先に消火器を持って火を消しに来る隊長が、姿を現さず、痺れを切らした隊員が代わりに中へ入り、消火器を手に戻った。
消火剤が噴射され、火が消えると、その人物は板谷寿満であることが判明し、敷島は、皆の手を振りほどいて板谷が載せられた担架の下に駆け寄って行き絶叫した。
結局、公団側の作業は延期となり、現場から引きあげていく警察車両の中で、隊員らは犠牲者に対しての申し訳なさに、皆、胸が押し潰れそうになっていた。
敷島は、寮に着き、余りの悲しみに、食事を辞退して部屋に籠った。
一人、部屋にいると、板谷と過ごしたかけがえのない時間が思い出されてくる。ふっと、板谷の机の引き出しを開けると、板谷の生まれたばかりの息子と思われる、丸々とした赤ん坊の写真が目に留まった。
働き者の父と、優しく包み込んでくれる母。
二人の愛情を受けて幸せな人生を歩んでいくはずの赤ん坊の顔が、涙でぼやけていく。
「板谷の馬鹿野郎。俺に火炎瓶が当たればよかったのに…」
二日ほど入院した後、妻の運転で自宅に戻る。
「大したことにならなくて良かったけど、食物アレルギーって怖いわね。
ホテルの方には話してあったはずなのに、どうして蟹が使われちゃったのかしら」
「心配かけて済まない。何はともあれ身体も休めたし、良しとするか」
玄関のドアを開けると、甲斐犬の次郎が出迎えてくれる。
「おーぉ、よしよし」
手をやると喜んでまとわりついてきた。敷島は、リビングに入り、掛けてあるカレンダーに目をやると、ある考えを思いつき、二階に上がっていった妻に
「帰って来たばかりで悪いんだが、ちょっと出てくる」
と、言う。
「えっ、大丈夫?送っていきましょうか?」
「いいんだよ。何回か行っている所だし。警察時代の知り合いなんだ。
二時間位で済むけど、昼飯は外で食べてくるからいい」
心配そうな妻の顔に「じゃぁ」と言い残して家を出る。
通りに出て車を拾うと、住所を告げ、30分ほどで、下町風情を残す一帯に辿り着いた。
十月も終わると言うのに外は暖かく、着てきたジャケットを脱いだ敷島は、
足取りも軽く、一棟の木造アパートの敷地内に入る。
そのまま迷うことなく歩を進め、一階の突き当りの部屋の前で止まり、ドアをノックする。
「はい、はい」
中から気のいい返事がし、ドアが開く。
「あっ」
「隊長、敷島です。いつも急に来てしまいまして申し訳ございません」
わざと丁寧に言う。元上司の関谷は、もうやめてくれよと言う顔をしながらも、既に靴を脱いでいる元部下に何も言えず、先に奥の四畳半に引き下がった。
部屋には卓袱台がぽつんと置かれ、その上には半額シールの貼られたロールパンが載っていた。
関谷は、醬油のしみがついた座布団を敷島に差し出すと、何かを決心したかのように喋りだす。
「そろそろ来る頃だとは思ってたよ。
でもさぁ、いい加減にやめてくれないかな。落ちぶれた上司の小汚い住まいに上がり込んで、自慢話をさんざんやって帰るという仕打ち。
従業員引き連れて、湯河原の老舗旅館に泊まったとか、クイーンエリザベスで船旅をしたとか、ペットの誕生日にステーキ肉を食わせてやったとか。
俺がどんな気持ちで聞いていると思う?」
「じゃぁ、なんで三年もの間、我慢して聞いていたんですか?
自分が帰りしなに置いていく千円が欲しかったからですか?」
もはや、関谷には言い返す気力もなく、がっくりとうなだれていた。
「もう来ませんよ。でもね、あなたも、お前、千円ぽっちじゃなく一万、置いて行けよくらい、言えばいいでしょう。ガキの小遣いじゃないんだから」
とどめを刺した様な気がした。
関谷は、年の離れたキャバクラ嬢に入れあげ、そのクラブの経営者に、警察しか知りえない機密情報を流したという罪で警察を追われた。
家族にはとっくに見限られており、無職となってからは、それまでちやほやしてくれた周囲の者も、潮が引くように彼の下から去っていったという。
警察でエリート街道まっしぐらだったはずの男が、訪ねる者もいない安アパートで、ひっそりと暮らしている。
「もう、来るまい」と決意し、靴脱ぎ場で、外履きとして使用されているスリッパに目が留まる。
思わず踵を返すと、驚きの表情をかくせないでいる関谷を無視し、財布から抜いた三万を卓袱台に置いた。
「靴でも買ってください」
敷島は、もう、振り返る事さえしなかった。
外に出て、新鮮な空気を吸い込むと、久々に、板谷寿満に語り掛けたくなり、通りに出て車を拾った。
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