辞令。東京本社に転勤を命ずる。

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 あるオフィスビルの一室。  6人が作業をこなすといっぱいの、こじんまりとした室内。二十代後半の若い社員が奥に座る年配の課長に呼び出され、目の前に立っていた。  その表情は隠し切れない喜びで、うっすらと笑みがこぼれている。 「おめでとう」 「ありがとうございます」  男は課長から一枚の紙を受け取る。  そこには、辞令と書かれ、男が一ヶ月後の春に東京本社に転勤を命ずる内容が書かれていた。 「よかったな!」 「おめでとう!」 「栄転だな!」  周囲から拍手と共に、祝福の声が届く。 「ありがとうございます」  男は、同僚一人一人に顔を向けて頭を下げる。 「今までよく頑張ってくれたな。君はこんな地方の営業所で終わる人生なんかじゃない。本社でその力を存分に発揮してくれ」 「ありがとうございます。これもみなさんのおかげです」  男は、思い返される今までの苦労が、遂に報われたのだと感じ、喜びのあまり跳びはねたい衝動を、グッと堪えるのだった。  その日の夜、仕事が終わると男は、いつものようにオフィスビルのすぐ横にある社員寮に帰宅した。  この住み慣れた部屋ともお別れか。  そう思うと、いささか窮屈に感じていたワンルームも、引き払うことにためらいも感じてしまう。  これから引っ越しの準備をしなくては……  東京では、すでに青年用の社員寮が手配されているという。  家具も家電も全て備え付けられているので、取り立てて急いで引っ越しの準備することはなかった。  残された一ヶ月間を、新卒から過ごしたこの町で、同僚たちと有意義に過ごすのみだった。  男は携帯を取り出すと、夜遅くにも関わらず、嬉しさのあまり実家の母親に電話をかけた。 「もしもし、母さん。俺、春から東京本社に転勤が決まったよ」 「あら、おめでとう! 出世したわね」  来春からは新たな環境で、新しい人々に囲まれて、自分の新たなステップを踏み出すのだ。  そう考えると希望に満ちた新生活を目前とし、期待で胸が高鳴り眠れなくなるのだった。  ある日の夕方、いつも通り定時で上がり社員寮でくつろいでいた男は、オフィスに忘れ物をしたことに気がつく。  大したものではなかった。個人のスケジュール帳を机の中に忘れてきてしまったようだった。  別に今必要なものでもなく、明日出社したときに回収すればいい。  だが、特に今することもない。なら、歩いて数分なのだから、今から取りにでもいこう。  そんな軽い気持ちで、男は職場へと向かっていった。  この時間はすでに無人のはず。  照明の落ちた廊下を1人歩いていく男。  しかし、オフィスからは明かりが漏れている。  電気の消し忘れか?  そう思いながらも、息を潜めてドアの前までやってくると、中から誰かの話し声が聞こえてきた。  男は、こんな時間まで誰かが残っていることを不思議に思い、中に入らずに様子をうかがうことにした。 「……彼はうまくいくでしょうか?」 「……そうだな」  どうやら話の声から、部長と課長が話しているようだった。  そしてその内容は…… 「……しかし、いきなり東京本社とはね」 「少し計画が早すぎなのでは?」 「他にやることがないんだろ?」 「次は技術職だって? そのうち議員とか、教師とか、そういう設定が始まるんじゃないか?」  いったい何を話しているのだろうか?  男は、はじめは自分の噂話でもしているのかと思い、聞き耳をたてていたのだが、話が進むほど理解できない内容となっていった。 「おいおい、議員なら秘書でも後援会会長でもありだか、教師となると生徒はどうするんだ?」 「確かに。我々では生徒役はできませんからな。ハハハッ!」  なんの噂話かは定かではなかったが、今からオフィス内へと扉を開けて入る勇気もなく、男はそのまま寮へと戻ることにした。  男はこの会話を、その時には特に深く考えることはなかった。  しかしその日を境に、少しずつ日常が変わってきているような、具体的には表現できないが、何らかの違和感を覚えるようになった。  周囲がよそよそしいというのだろうか?  今までの接し方と異なるというのか?  そしてある日、男は転勤のための必要な書類を忘れて帰宅してしまった。  しまった。これから戻って取りに行かなくては。  無人のはずのビル。  しかし今日も前回のように、オフィスに人の気配がした。  男は扉の前に座り、中からの会話に耳を傾ける。 「……で、彼はどうなるんだ? 新しいのにするのか?」 「……いや、もうしばらく使い回すようですよ」 「まあ、新品が来たとしても……」 「ええ、彼のデータを引き継げば……」 「で、彼が本社勤務の設定になった後は、今度は私たちは何をすればいいんだ?」 「計画書読んでないんですか? 彼は営業から技術職という設定になるんで、部長はプロジェクトマネージャーという設定ですよ」 「プロジェクトマネージャーか……言いにくいな。で君は?」 「私はシステムエンジニアですよ、部長」 「ちょっと部長って言うのは、よしてくれよ。彼の前だけにしてくれよ」 「ハハハ! たしかに」  どういうことだ? と男は思った。  話の内容から明らかに青年の転勤に関する内容がと推測された。  ただ何について話しているのかは分からない。断片的に聞こえてくる単語から想像するしかなかった。  どうやら男がこの地方の営業所から本社の技術職に転勤することは事実のようだ。辞令や今の会話からもうかがえる  しかし、それ以外の会話の内容は、心当たりがない。  男は全く理解できなかった。そのことが男の心を不安にし疑心暗鬼にさせた。  そうなると全てのことが気になりだしてくる。  そして最終的には転勤なんて最初からなかったのでは? という結論に行きついた。  散々期待させておいて、今回は諸事情により取り消しになり、また転勤は次回ということになるのでは。  そもそも、転勤と事例も最初からなくて、自分には本社へいつでも行けるくらいの実力があるが機会がなかっただけでと思わせといて、転職させずに永久にここで働かせようとしているのではないか?  翌朝、不安になった男は東京本社へと電話をかけることにした。  しかし、何度かけても繋がらないのだ。  正確に言えば繋がらないのではない。その電話番号が使用されていないのだ。  以前、職場からかけた時には、なんの問題もなくつながったのだが、自分の電話からかけると繋がらないのだ。  結局、出社の時間になり、男はオフィスに向かう。 「課長?」 「おはよう。どうしたんだ? そんな浮かない顔をして?」 「本社に電話したのですが電話がつながらなくて」 「な、なんで勝手にそんなことをするんだ!」  普段そのような取り乱した行動をとらない課長が、慌てふためく。 「君! 勝手なまねされると困るんだよ! 本社にも都合ってもんがあってだな!」 「……すみませんでした」 「ちょっと待ってなさい。今連絡するから……」  課長が物陰に隠れ、どこかへと連絡をする。  そしてしばらくしてから、男のもとにやって来て、 「いまなら本社につながるから、電話するがいい」  そう言われ男は、散々押した電話番号をかけると、 『はい、こちら……本社です』  簡単につながったのだった。  その日から男は全てを疑うようになった。  これはきっと何かの罠か!  それとも悪戯か!  とにかく俺を騙して、楽しんでいるに違いない!!  そしてある日、男はいつものように出社する。  しかし、手にはいつもの荷物とは別にキャリーバッグを引いていた。 「おはよう……君、それはなんだね?」 「課長、今日午後から半休を頂いて、東京本社へ行ってまいります」 「な、なにを言ってるんだ!! 急に!!」 「手続き上、問題はないはずです」 「そんな身勝手が許されると思ってるのか!」 「あなたたちこそ、本当は転勤なんて辞令、ないんじゃないですか!? 俺を騙して弄んでるじゃないですか!」 「そんなわけないだろ!!」 「もう我慢できません。今から向かいます」  男は引き返しビルを出ようとする。 「おいやめろ!! みんな止めるんだ!!」  職場の全員が男に飛び掛かり、身動きを封じようとする。 「放せ! お前らみんな馬鹿にしやがって!」 「だれか! 警備を呼べ!」  誰かの連絡で、白衣を着た男たち数人がやって来て男を取り押さえる。  その中の一人が、小さな端末を手にし、なにかを操作し始める。  すると、散々暴れ回っていた男が急に静かになり、そして動かなくなった。  その場に横たわる男。  まるで電源でも切れたかのように静かに、そして瞳は見開いたまま光を失う。 「いや~ 危ない所でしたね」  その白衣の男が課長に話しかける。 「しかし、どこで気がつかれたのでしょう?」 「さあ……」  男たちの勤める営業所の地。  ここは日本の地方都市ではなかった。  東京でもない。  日本でもない。  地球でもない。  ここは月面都市、日本領にあるビル群の一角。  地球は崩壊寸前にまで陥っていた。  度重なる人類の暴挙により、環境破壊が進み、人口が激減し、人が生きていくことが不可能な環境にまで荒廃してしまっていた。  苦肉の策として、人類は地球上での生活をいったん放棄し、月面へと移住することにした。  地球の環境が回復するまでの期間、人類は月面での生活を余儀なくされた。  その期間は数十年とも数百年とも言われた。  そして人類は来たるべき地球帰還のため、アンドロイドを作成。  先遣隊としてアンドロイドを派遣し、後続の人類帰還までの間、環境整備を行うことを計画した。  アンドロイドには人間と同じ生活を送らせ、自分は人間だと思わせる。  そしてその蓄積された経験をデータとして複製し、大量のアンドロイドに植え付け、地球へと送る。  かつて地球上で繁栄した人類のように、アンドロイドによって生活基盤、産業から環境整備までを整えさせる。  そう、彼はアンドロイドだった。  そのための教育である今回は、新入社員としての生活形式や経験の習得を、今まさにここで行われていたのだった。  彼に母親などない。実家なども存在しない。  母親への電話は、AIが母親役となり会話する。  同僚や上司は全て研究所の所員。その時々のシチュエーションにより、彼への役割を分担しローテーションで演じている。  たまたま彼の設定年齢よりも年上の所員が、上長を演じているに過ぎず、権限があるわけではない。  東京本社など、もちろん存在しない。事前に設定しておけば電話をかけてもAIが受け答えしてくれる。  営業や私用で外出する先々も、事前に設定されたホログラフィックで演出された空間の中にいるだけで、そこは月面日本領内の研究所の一室に過ぎない。  彼が行く先々は、全て体育館ほどの広さのある研究室一室で完結されて、その時々のシチュエーションをホログラムによって内装を変える。  それはあたかも、地球上の日本の都市にいるかのように……    皮肉なことに、テスト期間中に被験体のアンドロイドがこの世界に疑問を抱き始めたために、今回のように途中中断となった。 「さて、どうしたものか……」 「不審な行動は、いつ頃から見られるようになりましたか?」 「そうだな、一ヵ月前までの辞令交付の演出時までは普通だったのだが……」 「分かりました。取り合えず今回は一ヵ月間の記憶は削除しまして、もう一度その場面からやり直してもらえますか?」 「ああ、面倒だが致し方ない。了解した。お――い、みんな、悪いが一ヵ月前のシナリオから再スタートだ」 「また同じことやるのか」 「面倒臭いわねー」 「いいか、今度は悟られないように注意してくれよ」 「記憶は削除しました。再起動させますので、数分後に目覚めると思います」 「ああ、わかった。みんな、持ち場に戻れ」  ―――そして、  椅子に座る男の見開いた瞳に、光が再び宿る。 「―――――ここは?」 「おめでとう」 「えっ? あ、ありがとうございます」  男は立ち上がり、課長の前に歩み寄ると、一枚の紙を受け取る。  そこには、辞令と書かれ、男が一ヵ月後の春に東京本社に転勤を命ずる内容が書かれていた。 「おめでとう!」 「栄転だな!」 「ありがとうございます」 「今までよく頑張ってくれた。君はここで終わる人生なんかじゃない。本社でその力を存分に発揮してくれ」 「ありがとうございます。これもみなさんのおかげです……」
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