彼方からの記憶

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ザッザッザッという音が右から聞こえる。 通り過ぎた自転車のサドルから目線を移すと、落ちた葉をしゃがみこんで拾う白髪の女性が見えた。 「隆也くんおはよう」と声をかけられたので「おはようございます」とマスク越しで返事をする。マスクから漏れ出る暖かい空気を感じたとき、赤黒く染まった感情が脳内を占領した。頭が物凄いスピードで回転し何かを求め思考している。 落ち着いたと思ったときにはコンビニエンスストアの横を歩いていた。さっきの出来事は何だったのだろうと思い出す。お婆さんに挨拶されて言葉を返したことまでは思い出せるが、その先が思い出せない。 気持ち悪さを感じながら混雑した車内に乗り込む。続きのアニメでも見ようとスマホを開くがさっきのことが頭から離れない。 仕事も集中できなかった。 家に帰ってシャワーを浴び、プリンを食べる。毎日のささやかな楽しみであるプリンが美味しく感じられなかった。体のどこかが不調なのだろうと思い、敷き布団に潜り込む。寒くなったと思いながら入眠を試みるが、一向に寝付ける気配がなかった。仕方ないので日本の闇という動画を開いてみる。こんな動画を真に受けている奴は馬鹿だろうなと思いながらも、食い入って見てしまう。いつもなら動画の途中で寝てしまうが、今日は眠れなかった。 仕方ないので必死に目を瞑り何も考えないようにした。 朝起きるとどっと疲れた感じがある。昨日のせいだと思いながら会社に行くための準備をする。最近は有岡部長が張り切っているせいで出勤時間が早くなっている。迷惑な話だと考えながら昨日と同じ道を通った。 いつからだろうか やることなすこと全てに消極的になったのは。 今年の目標に掲げた毎朝ランニングも、ウェアとシューズを揃えただけで満足してしまった。 ぶよぶよと膨らんできたお腹を引っ込めようとしていたのに、気づけば去年より太っている。 消極的というより行動しなくなったのかもしれない。 そう思っていると、昨日と同じコンビニエンスストアを通り過ぎようとしていた。 「共に変わろう!」と書かれた選挙ポスターを目に入れながら職場で飲むためのコーヒーを買った。心無しかコンビニ店員の視線に蔑まれているような感覚を覚えた。 家に帰り布団に倒れ込む。明日は選挙なので会社は休みだ。いつも通りプリンを食べようと冷蔵庫を開けたが、ダイエットを思い出し慌てて閉める。 落ち着けと自分に言い聞かせてシャワーを浴びる。浴室から出た後ブカブカのシャツだけ着たら、冷蔵庫に手を伸ばしている自分に気づいた。変わらないことに嫌気が差す。堕落な自分を受け止めることは辛かった。 朝起きると肌寒かった。ズボンを履かず寝たせいだと思いながら瞼を擦り重い体を起こす。今日は選挙らしいが候補者に誰がいるかも分からない。テレビを付けてみると江藤亜希という候補者が目に入った。ふと実家を思い出し母に電話をする。 「もしもしたっくん?」開口一番朗らかな声が聞こえる。 母がたっくんと呼んでいることを思い出しながら「そうだよ」と返事をする。続けて「今日そっち行こうと思うんだけどいいかな」と聞いてみる。 母は「選挙行かないの」と聞いた後に、こちらが返す間もなく「今お父さんいないけど来てもいいわよ」と返してくる。 話も聞かずに選挙行かないの?と言われてイライラしたが、了承されたのでとりあえず向かうことにした。 実家は電車とバスを乗り継いで2時間ほどの所だ。小雨の降る中バスで移動すると、江藤駐車場という赤く錆びれた看板が目に入る。何度も選挙のことを思い出し、怒りが増幅する。車内だと意識をして舌打ちしないように努めた。 実家に着いてインターホンを押す。「はーい」という声が聞こえた後、ガシャンと音がして重そうなドアが開いた。「たっくんおかえり」笑みを浮かべた母が見える。 「これお土産」と言って駅前で買った洋菓子を差し出す。 「そんなこともできるようになったのね。ありがとう」と言いながら「雨大丈夫だった?」と聞いてくる。 返事をする間もなく「タオル使って」とバスタオルを頭に乗せられた。お節介と思いながら「ありがとう」と返事をし、濡れた髪をタオルで拭った。 ドアを開けたら「たっくんハンバーグ好きだったでしょ」と母がニヤニヤした目線を向けてくる。机を見ると、張り切って作ったことが一目で分かる量のハンバーグが用意されていた。「こんなに食べれるわけないじゃん」と言い返してみるが心は少し嬉しかった。 ご飯を食べながら話をしていると、埃を被ったアルバムが目の前に差し出された。母は「汚れちゃう」と言いながらテキパキとタオルで拭いていく。アルバムを開き私の夢と書かれたページを広げる。 「久しぶりに見てみたかったのよ」母が悪戯っぽく笑う。 加藤隆也と書かれた部分に目を近づけると「世界一のサッカー選手になる」とオレンジ色で書かれていた。 思い出す。 サッカー選手を目指していたこと。すぐに諦めたこと。中学生のときに諦めたこと。スタメンにすらなれずに自信を失ったこと。逃げることが多くなったこと。 挑戦するのを辞めてしまった自分を振り返る。毎日をただ過ごし、気休め程度の目標を立てるがそれすら達成できない。人間として落ちぶれているのに抗うこともできない。底が見えないトンネルに突き落とされているような感覚だった。 帰宅後も落ち着かなかった。 昔を思い出すたびに暗い感情が浮かんでくる。 「お前アホだな」「なにやってるの」「意味わからん」「いい加減気づけよ」 鋭利な言葉の槍が襲いかかってくる。過去を受け止めるのが苦しかった。初めてそれに気づいて涙が溢れてきた。 6:02と表示されたスマートフォンを見て、自分が寝ていたことに気づく。9時間も経っていたみたいだ。 冷水で顔を濡らしながら毎日ランニングすると誓った。気を引き締めて、箪笥の奥に収納されているウェアを取る。玄関の隅に置かれたシューズを履いて、勢いよく外に飛び出した。重い体を揺らしながら必死に足を動かす。疲労を感じ、時計を見るが走り始めて5分しか経っていなかった。辞めたいと思う気持ちを押し殺して必死に足を動かす。限界だと思って時計を見たら7:01となっていた。走り始めてから30分も経ったらしい。 この日から毎日ランニングするようになった。来る日も来る日も走り続ける。辞めたいと思うことは何度もあったが、負けたくない気持ちが自分を奮い立たせた。 走り続けて半年が立ち、春に差し掛かってきた。183日、184日と記録を取ることがいつの間にか快感になっていた。 いつもと同じ道を走っていると桜が咲きそうなことに気づいた。パンパンに膨れた蕾が今にも弾けてきそうであった。 その瞬間、脳裏に焼き付けられた記憶が頭を駆け巡る。 「隆也くんだけ落ちたんだね」 「頑張ってたのに。残念だったね」 「努力があと1歩足りなかったんだろう」 「冬休みにサボったのがいけなかったわね」 気づいたら放心状態だった。 今までの努力は何だったのだろうと虚無感に襲われる。 だから僕は桜が嫌いだ。
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