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「私は行った事がありませんが、〝異界〟は良い場所らしいですよ。その人の望みを叶えた世界なのだそうです。古き良き日本の風景があり、人はみな優しい。現代の便利さは喪われていますが、争いのない穏やかな世界のようです」
争いのない穏やかな世界、という言葉に一瞬気持ちがグラついた。
「……でも、家族とか友人はいないでしょう」
「それがいるんです。〝異界〟は異なる世界でありながら、『あり得なかったもう一つの未来を叶えた平行世界』でもあります。ですから、あなたのご家族や友人も、あなたの望む姿となって〝いる〟んです」
笑美は表情を変えないまま――、さらに心を動かした。
「あなたが今のご家族や友人に満足されているなら、そのままの姿で現れるでしょう。もしあなたがご家族や友人に不満を抱いているなら、短所のみを直し、理想の姿となってあなたを癒やしてくれます」
元彼だって、浮気をしたり自己中心的な考え方さえなければ、見た目は格好いいと思ったし、付き合っていた当時は理想の彼氏だと思っていた。
――もし、元彼が理想の姿になって付き合ってくれるのなら……。
そんな気持ちが、笑美の心をよぎる。
「……そんな、都合のいい話……」
だが現実を生きる者として、笑美は最後の抵抗をしようとしていた。
半笑いで駅員の話を一笑に付そうとしたが、駅員も穏やかな微笑みを浮かべたまま、引こうとしない。
「〝異界〟はあまりに人の願いを叶えた世界であるがゆえ、神様が『このままでは人間が堕落してしまう』として現実世界から隠したそうです。神社を建てたのも、当時の政府の命令だったという事です。国のトップに立つ人は、人の知らない場所で神様の声を聞く機会もあったのでしょうね」
最初はただの都市伝説と思っていた〝異界〟の話も、段々現実味を帯びたものに思えてきた。
「でも……〝こっち〟の私はどうなるんです? 行方不明とかになるんじゃないですか? 親が心配しますし、友達だって……」
「それは、〝異界〟に行った時に〝異界のあなた〟と交代をするんです。あちらの世界はこちらの世界の鏡です。もう一人のあなたがいて、純粋な〝その人〟はきっとあなたの願いを断らないでしょう。『駅員』にさえ頼めば、世界を行き来する事は可能です。頻繁にはできませんけれどね。あなたの気持ちが休まった頃になって、またこちらに戻って来たらいいんじゃないですか?」
「…………」
それはとても甘美な誘惑に聞こえた。
「そんな事……できるんですか?」
駅員の顔を見上げると、彼が微笑む。
「できますとも。そのための『卯飼駅の駅員』です」
いっそ身を委ねてもいいのでは、という笑顔を見せた彼は、「ご興味があるのでしたら、ついてきてください」と踵を返す。
「え? い、今ですか?」
思わず立ち上がった笑美に、駅員は温かみのある表情で電光掲示板を指差す。
「今は丁度人がいない時間です。次の列車が来る前にご案内をする事なら可能です」
そう言って歩き出す彼に、思わず笑美はついて行ってしまった。
待合から出て駅長室に入るドアを、駅員は鍵で開ける。
通常入れない場所に足を踏み入れ、笑美の胸はドキドキと高鳴っていた。
普段窓口ごしにしか見えなかった駅長室の中を通り、駅員は奥にあるもう一つのドアの鍵を開ける。
そのドアは新しいように思えたが、重たそうな半身を開いた向こうには、現代の駅にあると思えない薄暗い空間が見えた。
「……な、なんか怖いです……」
「大丈夫ですよ。電気がありますから」
駅員は何でもない口調で言い、壁のスイッチを押した。
パチンと小さな音がしたあと、確かに空間が青白く照らされる。
「万が一に備えて、懐中電灯もありますのでご心配なく」
駅員は笑美に懐中電灯を見せ、先に歩き出した。
空間には下りの階段があり、どこまでも続いている。遙か地下から冷気が漂っているような気がして、夏のはずなのに寒気を覚えた。
カン、カン、カン……と駅員の足音に続き、笑美のパンプスのヒールがワンテンポずれて足音を刻む。
「……どこまで下るんですか?」
そう尋ねたのは、もう地下三、四階には到達しているのでは……と思った頃だ。
さすがに不安になった笑美は、前を歩く駅員に声をかける。
「もう少しですよ。一番下につけばドアがありますから、そこをくぐるとあちらの世界です」
駅員はチラリと笑美を振り向き、変わらない表情で穏やかに告げた。
そして、ようやく一番下と思われる場所まで下り、二人の目の前に先ほどよりもずっと古そうなドアが現れる。
どことなくレトロな洋館のドアを思わせる。けれど年季の入った色味から、それが現代に作られた物でない事は見て分かる。
「開けますよ」
駅員は再び違う鍵を取りだし、ドアの鍵穴に差し込んだ。
古びたドアノブを掴み、駅員は片手を笑美に差しだしてくる。
「さあ、ここから先は〝駅員〟と手を繋いでいてください」
「分かりました」
白い手袋の上に手を重ねると、やんわりと握られた。
駅員がドアノブを回し――ドアが開かれる。
薄暗い空間に光が差し込み、笑美は思わず目を瞑った。
「お客さん」
駅員の声がし、目を開くとそこは『駅』だった。
だが、今まで笑美がいた卯飼駅ではない。
片田舎の無人駅のような、待合の建物がない、ホームが野ざらしになった駅だ。
上りと下りだけの線路が二本あり、ずっと遠くまで続いている。
吹き抜ける風は湿り気を帯びた夏の夜のもので、けれど現代の蒸し暑いものとはまったく異なる。
リィ、リィ……と辺り一面からスズムシの声が聞こえる。
郷愁を感じさせる虫の音に思わず目が潤み、なんとなく見上げた夜空にはぽっかりと満月が浮かび上がっていた。
「……ここは……」
「〝異界〟の駅ですよ。あの満月は永遠の満月です。常に満ちて、この世界を照らしている。あちらの『卯飼駅』という名前は、月に住むうさぎから取った名前です」
夜のホームは古びた電気に照らされ、ずっと遠くに街……というよりも村と言った方がいい小さな明かりが見えた。
「もう手を離しますね。あなたは無事にこちらの世界に来られましたから」
「は……はい。ありがとうございます」
駅員の手を離し、ふと後ろを振り向くとホームにある小さな駅長室に、あのドアが通じているようだった。
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