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「いいか? 断ったら分かってるよな? 社内メールに一斉送信だぞ?」
ようやく壁ドンの体勢から逃れられたものの、元彼はそう言ってスマホをちらつかせ、資料室の出入り口に向かう。
資料室から出る頃になり、元彼は笑美の方を振り向いてせせら笑った。
「お前さぁ、いい加減言いたい事があるのに言えない時、胸元弄るのやめたら? シャツしわしわじゃん。かっこわりぃ」
自分だけが笑美の癖を分かっているという言い方をし、元彼は優越感の籠もった笑いを残し、去って行った。
**
気が付けば、駅の待合には誰もいなくなっており、笑美は帰り時か……と腕時計を見る。
結局、元彼に脅されたあと、笑美は彼の言うなりになって家政婦の真似事をし、もう彼の事をなんとも思っていないのに、ベッドに連れ込まれるようになっていた。
好きでもない男に組み敷かれるのは、ただただ拷問だ。
その生活が一週間ほど続き、心理的に限界を迎えた笑美は、初めて元彼に反抗して会社からまっすぐ帰宅しようとした。
けれど帰宅しきれないでいる自分もいて、結局駅の待合で一時間近く座って呆けていたのだ。
スマホには、先ほどから頻繁に元彼から連絡が入っている。
『どこにいるんだよ』
『家に来いって行っただろ』
一方的な呼びつけだけがあり、笑美に何らかの事情があるなど思っていない。
最終的には、とても口に出来ない単語で笑美を罵り始めている。
(もう……嫌だ……)
スマホの通知音が鳴るのも嫌で、マナーモードにした。
だが元彼から連絡があるたび、スマホがブーッ、ブーッと震えるので、それも嫌になって鞄の中に突っ込んだ。
「……はぁ……」
両手で顔を覆い、肘に膝をつけ大きな溜め息をつく。
その時――。
「大丈夫ですか?」
男性の声がしたかと思うと、三十代後半ほどの駅員が少し離れた所からこちらを見ていた。
「……はい、すみません。大丈夫です」
立ち上がってこの場を去ろうとするが、さらに駅員に話し掛けられる。
「困っていらっしゃいますか?」
(え……?)
駅員はこんなに人に関わってくるだろうか? と思い、笑美は少し引く。
「いえ、すみません。気持ち悪いですよね。ただ、何かから逃げたがっているように思えたので、気に掛かってしまったんです」
「……逃げたがってる……」
話した事もない駅員にズバリと指摘され、笑美は空虚な笑みを浮かべる。
(そこまで……色々だだ漏れていたのかな)
時刻は丁度、列車と列車が来る間なのか、駅には誰もいないように思えた。
「……元彼から脅されていて、もうどこにも逃げられない気がするんです」
まったく関係ない人だからこそ、笑美はポロッと弱音を零してしまう。
駅には普通六人ほど駅員がおり、それぞれ別の役割を持っている。
駅員室にはもう一人いそうに思えたが、何も言ってこないところを見ると、今は暇なのかもしれない。
(この駅、あんまり人が降りないもんな)
「いいこと、教えてあげましょうか?」
ふと、駅員がそんな事を言ってきた。
(なに、この人……)
どこの世界にも店員やバス・タクシーの運転手など、フレンドリーな人はいる。
この駅員もその手合いかと思ったのだが、どことなく彼の雰囲気は〝違う〟気がした。
「この駅、卯飼駅と言うでしょう? 昔はイカイ駅と言ったんです」
「はぁ……」
(人が困っているというのに、この駅員さん何を話し出したんだろう?)
困惑した笑美は、間の抜けた返事しかできない。
「イカイって言われて、どういう漢字を思い浮かべます?」
「イカイ……ねぇ。……はは、異世界の〝異界〟とか」
不思議系のバラエティ番組がわりと好きな笑美は、冗談交じりにそう言ってみた。
「そう! ですねぇ。よく分かりましたね」
駅員はいきなり、笑美が思わずビクッとするほど大きな声で反応してきた。
引き気味になった笑美はみじろぎするが、いつの間にか駅員は笑美の前に立っている。会話を中断してこの場を立ち去るには、不自然な状況になってしまっていた。
「いきなり……、なん、ですか?」
それでも自分が戸惑っているという事を伝えるために、笑美は愛想笑いをし、わざと水を差すような言葉を口にする。
「五芒星って知っていますか? 昔、陰陽師が使ったとされる星形の事です」
「は、はぁ……。映画とかにもありましたね」
有名な映画は見たし、それぐらいの知識はある。
「地図で見ると、この卯飼駅を中心として五つの神社があるんです。この卯飼駅はその昔、〝あちらの世界〟に行き来する者を通していた穴があったそうです。明治時代ほどにその穴を封じるため、次々に神社が建てられました。そして地名もイカイからウカイに名前を変え、そこに駅ができました」
駅員は饒舌に喋る。
いっぽう笑美は駅員が何を言いたいのか分からず、呆然としたままだった。
(何か……ヤバイ人に捕まっちゃったのかな)
元彼の事もヤバイ案件だが、この駅員も相当だ。
「その〝異界〟に、興味はありませんか?」
「え?」
ようやく会話の終着地点が見えてきたかと思ったが、思いも寄らない場所に着地しそうだ。
「この駅の駅員になる者は、代々こっそりと駅長からイカイの事を聞かされているんです。ふとした時に〝繋がって〟しまう時もあるから、気を付けるようにと」
駅員が何とも言えない笑みを浮かべ、笑美の背筋にうすら寒いものが走った。
三十代後半の駅員は、やや不気味な事を覗けば割と顔が整っている部類だと思う。そんな彼が微笑むのだから、名状しがたい雰囲気すら発する。
「……駅員さんはその〝異界〟に行った事があるんですか?」
「いいえ。駅員は……そうですね、船で言うなら船頭のような立場なんです。駅員が『行きたい』と思っても許されません。ただ、本当に逃げ場所を必要としている人を見つけた時は、こっそりご案内してもいい事になっています」
「逃げ場所……」
そこで彼の言いたいことを察し、合点がいく。
「……でも、〝異界〟なんでしょう? 行ったら戻って来られないんでしょう? それにどんな場所かも分からないし、不気味な所に行こうと思いません」
駅員の言いたい事が分かった今、笑美は彼の話題に順応しようとしていた。
元彼に脅されている現実を思い出し、彼に会うぐらいならいっそ遠くに逃げたいとすら思うのは確かだ。
渋る笑美に、駅員は柔らかな笑みを浮かべた。
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