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「この世界は広いようで狭いらしいです。〝あなた〟が〝もう一人のあなた〟を求めて歩けば、すぐに出会えると思います。夜道を歩いているとしても、あなたを襲うような人はいません。少し遠いですが村まで行けば、きっと皆さんが温かく迎えてくれるでしょう」
「……はぁ……。じゃあ、歩いてみます」
不思議と〝異界〟に対する恐怖はなく、笑美はホームを歩き出した。
「いつでもこの駅から向こうに戻れるんですか?」
「ええ。この駅にもこちらの駅員がいますから、見つけられたら声を掛けてみてください」
「分かりました」
笑美は狐にでも化かされた気持ちになり、コツコツとパンプスの踵を慣らしてホームを歩いて行く。
ときおり後ろを振り向くと、駅員は同じ場所にずっと立っていた。
やがてホームが終わり、笑美は田舎道を歩いて行く。
口からは小学校で習った童謡のメロディーが出て、美しい月と宝石をちりばめたかのような夜空を見上げ、もう誰にも脅される事のない世界に身を委ねていた。
**
駅員は、笑美の姿が小さくなるまで見送り、それまでずっと微笑んでいた顔を――さらに笑わせた。
「美奈子」
誰もいないはずのホームに声を掛けると、ホームのベンチにボウッ……と人影が現れた。
どこか輪郭がおぼろげなその〝人影〟は、妊婦の姿をしている。
――が、〝人影〟は完全なヒトのシルエットをしていなかった。
「……こう、じ……さん」
弱々しい女性の声に、『こうじ』と呼ばれた駅員は笑みを深め、細めた目から一筋の涙を零す。
「迎えに来たよ、美奈子。ずっと待たせていてごめん」
駅員はゆっくりとベンチに歩み寄り――、〝彼女〟の前にしゃがんだ。
〝彼女〟――美奈子は、青白い顔をした妊婦であった。
まだ三十代になったばかりの年齢で、紙のように真っ白な顔色さえ覗けば美しい女性だ。
そしてその腹は、子を宿しているはずの腹は――、胴体の辺りから真っ二つに引きちぎられていた。
空色のワンピースは途中からどす黒い赤に変わり、裂け目から臓物が顔を覗かせている。
それでも美奈子は、上下の体が分かれた状態でベンチに〝座って〟いた。
「寂しかっただろう。本当にごめん」
駅員は愛情を目に宿し、美奈子の真っ白な唇にくちづけた。
「一人、つれて来た。だから連れ帰られるのは一人だ。……お腹の子供は戻らないけれど、どうか僕とやりなおしてほしい」
「……うん。……こうじさ、……ん。と、……また、生きら。れる、な――ら、いっしょに、いき……た、――い」
体を真っ二つにされた姿でも生きている美奈子は、痛みを感じていないようだった。
だが必要な臓器を失い、途切れ途切れの声で駅員に訴えかける。
「そのために迎えに来たんだ。……だから、行こう」
駅員は手袋を脱ぎ、かつての妻に手を差し伸べる。
「こう、――じ、さん」
美奈子が真っ白な手を駅員の手に重ねた瞬間――、時間が逆戻りしたかのように、美奈子の分断されていた胴体がくっついた。
途切れていた血管が、筋繊維が、骨が、あらゆるものが元の姿に戻り、――一人の女性を形作る。
同時に、遠くから「っぎゃあああああああっっ…………!!」と女性の悲鳴が聞こえた。
「…………」
「そんな顔をするんじゃない、美奈子。一人つれて行くには、一人を連れて来る。一人の命を救うには、一人の命を捨てる。一人の怪我を治すには、一人にその怪我を負ってもらう。……それは、ここの駅員から教えてもらったはずだ」
駅員に言われ、美奈子は暗い表情で頷いた。
「……〝あちら〟に戻ったら、〝彼女〟のご家族にご挨拶をしていい? 助けてもらった事にしたいの」
美奈子の手を引いて歩き出した駅員は、妻に苦く微笑む。
「妊婦を庇って女性が列車に轢かれ、上下バラバラになった。それだけでも大きなニュースになるのに、遺族に挨拶に行ったらマスコミに騒がれるぞ? 色々、あちらに戻ってから考える事にしよう」
「……そうだね」
駅員はドアの前で妻を抱き締め、幸せそうに目を細める。
「さあ、戻ろう。美奈子。僕たちの世界に」
そして駅員はドアを開け、かつて卯飼駅で胴を真っ二つにされた妻の手を握り、生者の世界に戻っていった。
**
「なんで……っ! なんでぇぇ……っ!?」
笑美は夜道のなか絶叫する。
夜道を歩いていたら、突然ガクンッと転んでしまった。
立ち上がろうとしても、足の感覚がない。
両手を突っ張らせると、ズリ……と胴体を引きずる感触があった。
恐る恐る下を見ると、月光に照らされてぬらりと光る己の臓物が見える。
――じゃあ?
――視線の先にある人の下半身みたいなものは?
――見覚えのあるパンプスを履いたあの足は?
すべてを理解した瞬間、笑美はこの世の者と思えない絶叫を上げていた。
「駅員さああああん……っ!! 助けてっ! 助けてよおおおおっ!!」
どれだけ叫んでも、夜のしじまに笑美の声が響くのみ。
村は遠く、笑美の声が聞こえていると思えない。
喉が嗄れるまで叫び続け、両手を地面にバンバンと打ち付けた。
恐ろしいのは、打ち付けた掌が血まみれになっても、まったく痛みを感じない事だ。
絶望しながらも笑美は叫び、月に向かって吠え続けた。
皎々と光る満月の下、生贄となった事を自覚していない笑美はいつまでも断末魔の声を上げ続ける。
その世界が永遠の夜を巡り、生き物の死を許さない世界だと知るのは、笑美が乾いた笑いを漏らし始める頃だった。
完
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