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「ねぇ、この駅って人身事故があったんだって」
「人身事故なんてどこの駅にでもなくない?」
「それがぁ、ホームと車体の間に体が挟まれて、すっごい叫び声を上げながら胴体が真っ二つにされたんだって。エグくない?」
「うわぁ……」
駅の待合所で数人の女子高生が、そんな会話を交わしていた。
時刻は夏の夜。
時刻は帰宅ラッシュも収まった二十時半過ぎ。
その駅は特に大きくもないので、列車が停まる時間以外は閑散としたものだ。
二十四歳のOL・笑美は、駅の待合ベンチに座ってスマホを弄りつつ、ぼんやりと彼女たちの会話を聞いていた。
(快速だったらあり得るか……)
以前列車で大学に通っていた頃、駅を通過する貨物列車や快速列車のスピードに、友人と一緒に「こわぁい」と言って笑っていた。
あの頃だからこそ、興味本位で「飛び込んだらどうなるかなぁ?」と言えていた。
列車に飛び込むなど真剣に考えない気楽な時だったから、あんなにも軽く口にできていたのだと思う。
(苦しむのは嫌だなぁ……。楽に死にたい)
スマホに目を落としている姿勢のまま、笑美は先ほどからずっと目の前にある駅中販売所の新聞を何気なく見ていた。
それも、特に新聞の見出しに注視している訳でもない。
〝どこにも〟興味を持てておらず、ただぼんやりと呆けていたのだ。
残業を終えて会社から逃げるように帰り、笑美は最寄り駅でこうしてボーッとしている。
「死ねば楽になれるかも」
その思いに胸を支配され、笑美は用事もなく駅の待合に座っていた。
ときおり駅員から気遣わしげな視線をもらう事もあり、カモフラージュのためにスマホを弄っている……という〝体〟を作っていた。
「ていうか、その人なんで挟まれたんだろーね?」
「しらなーい。自殺願望でもあったんじゃね?」
「アハハッ、やっば! この世を儚んでー……ってやつ?」
軽やかな笑い声を響かせる女子高生は、特にギャルという風貌でもない。どこにでもいる普通の女子高生だ。
けれど彼女たちから感じるのは、圧倒的な生のパワーだ。
若く、刹那的で、だからこそ生き生きとした輝きがある。
(私も高校生の時は、地味ながらも毎日楽しかったっけ)
「…………」
彼女たちの声を聞きながら脳裏に蘇ったのは、元彼の常軌を逸したような目だ。
訪れる者が少ない、会社の地下にある資料室で、笑美は元彼にいわゆる壁ドンをされていた。
**
「お前、分かっているだろうな?」
彼からは、汗の匂いがした。
夏場だから仕方がないし、営業部なので歩き回った後なのだろう。
それを責める気はない。
ただ、汗だくになった体で他人と距離をつめるのは、一般的にごく親しい間柄でなければまずしない行為だと思う。
彼と交際していた時なら、この距離にときめいて喜んだだろう。
だが別れて、むしろ憎くすら思っている現在、こんな体勢はただの拷問に過ぎない。
「……やめて。人に見られたら誤解される」
笑美は低く呟いて元彼を押しのけようとしたが、目の前にスマホをかざされてギクリと体を強張らせた。
「……俺、見ちゃったんだよなぁ」
以前は惚れた弱みで「かっこいい」と思っていた顔が、ニタァ……と醜悪に歪む。
「お前、俺が浮気したってさんざん責めておいて、自分は不倫かよ」
スマホの画面には、薄暗いバーで上司に体を触れられている笑美の姿が写っていた。
それを見て背筋がヒヤッとする。
(これは……。あの時の……)
勤め先で、笑美はセクハラに遭っていた。
あまり口答えをしない性格だからか、妻帯者の上司に言い寄られていたのだ。
盗み撮りをされた時も、「食事をしながら会議をしよう」と言われ、その後断れずにバーに引きずり込まれてしまった。
その後のお持ち帰りコースは逃れたものの、必要以上に体を密着させられ、辟易としていたのを覚えている。
「なんで……こんなストーカーみたいな事をするの?」
震える声で元彼を睨み上げたが、彼は顔を歪めたまま目に怒りを灯すだけだ。
「お前みたいなのが、俺に対して『浮気した』って断罪しようっていうのが気に入らないんだよ! 俺は俺と釣り合う女と遊んでもいいけど、お前みたいなのは黙っているべきだろ? せいぜい家で貧乏ったらしい手作り料理でもして、俺が望んだら何でも『はい』って言っていれば良かったんだよ」
――あぁ。
――これは、搾取する側の目だ。
笑美はそう直感し、この男相手にまともに会話をする事を諦めた。
これは人ではない。
人の形をした何かだ。
普通の人間が持つ倫理観など持ち合わせないし、彼が気を遣う女性というのは、美人でスタイルのいい、「連れていて気持ちのいいアクセサリー」だ。
笑美のような十人並みの顔で特に秀でた所もない女は、彼にとって道具にすぎない。
その道具に歯向かわれて、スカイツリーよりも高いプライドに傷がついたのだろう。
(残念な人。顔だけなら二流芸能人って言ってもいいぐらいなのに)
内心元彼に対して吐き捨て、笑美は沈黙を守る。
「なぁ、黙っているっていう事は自分でも分かってるんだよな? お前はブスだし、取り柄もないし、俺みたいな優しい男が相手をしてやるだけでも、とても幸運なんだって分かってるよな?」
歪んだ嘲笑を聞きながら、笑美はぼんやりと思う。
(この人、私に依存しているんだろうな。私が母親みたいに何でもしてあげたから、その都合のいい存在がいなくなって、苛々しているんだ)
そして、それが愛情でもなんでもない事を笑美は知っている。
「分かったらさぁ、今度俺の部屋掃除しに来てくれよ。仕事が忙しくてなかなか片付けられなくてさ」
(私は……あんたの母親じゃない)
心の中で言い返すが、笑美は目の前の相手に言い返せる度胸を持っていない。
体は緊張して強張り、冷静に突っ込む心とは裏腹に、心臓はドキドキと嫌な音を立てて高鳴っていた。
喉元はキュッと引き攣って声を発せず、笑美は猛禽に狙われた小動物のように小さくなっていた。
「お前のために合い鍵をまた作ってやったから、明日来いよな? そしたらご褒美にまた可愛がってやるから」
下卑た笑いを顔面に貼り付かせ、元彼は笑美の胸ポケットに合い鍵を押し込んだ。
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