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7月27日
『その日は、何かが蹴り飛ばされる音で目が覚めた。時刻は朝八時。検温の時間だ。
「くそったれが!」
カーテンを閉めずに寝ているから、部屋の入口で暴れる源さんと、取り押さえようとする看護師たちの姿が飛び込んできた。
「おめえら全員、呪われろ! 適当ほざいてりゃ、ジジイ一人くらい、だまくらかせると思ったか! おい!」
扉が閉められ、状況がわからない。途中から涙でぐしゃぐしゃになった声が、急に遠ざかっていく。たぶん、どこかに連れて行かれた。
床に落ちていた鉢巻きを呆然と眺めているうち、伊藤さんが様子を見に来た。
「源さん、どうしちゃったの」
「面会の件で……ちょっとね」
「えっ、明日のはずだよね。もしかして来られなくなった?」
いや、でも、源さんは「だまくらかせる」と言っていた。まさか。
「源さんに、ウソ吐いてた……とかじゃないよね?」
伊藤さんは黙り込んだ。胸がムカムカしてくる。
逃げようとするから、腕をとっさに掴んでいた。今血圧を測ったら、最高記録を叩き出せそうだ。いや、最低記録か。
「私のせいじゃないの! 毎日、何度も、源さんがナースステーションに押し掛けてきて、『嫁と息子はいつ来る』、『連絡してるんだろうな』って、しつこく聞きに来るから! ……対応にまいってた若い看護師の子がつい言っちゃったのよ……来週あたりじゃないですか、って」
「それを、源さんは『来週、二人が来る』って誤解した?」
「その子は、次の日に『手違いだった』、『やっぱり来られそうにない』って伝えればいいと思ってたみたいなんだけど、源さんがあんまり楽しみにしてるから、白状できなくなっちゃったらしくて……それで、さっき……」
うわ、と声が出ていた。最低すぎて。
「当日伝えるのはやばいからって今日バラしたの!? そりゃ、怒って当然でしょ……どれだけ明日を楽しみにしてたか! 源さんがああいう性格だからって、扱いが雑すぎるよ!」
あからさまに、伊藤さんはムッとした。床の鉢巻きを拾って源さんのベッドに放り、今度こそ部屋を出ていく。
気分は最悪。うまく寝直せなかった。あまり見かけない看護士が、おどおどしながら運んできた三食全て、ほぼ残した。
戻ってきた源さんに、どう声をかけよう。何も知らないふりをすべきか。でも、全く話題にしないのも、おかしくないか。怒っているだろうから、なだめるのが先かも。
――ずっと考えていたけど、答えが出るより早く、源さんが帰ってきた。伊藤さんが押す車いすに乗って、消灯寸前に。
「戻ったぞぉ。朝はわるかったなぁ、驚かしてよ」
それが、第一声。呆気に取られて、「おかえり」を言い損なった。
源さんはおれを見ないまま、ベッドに小さく収まった。伊藤さんも視線を向けてこない。明らかに様子が変だ。
「源さん、よく眠れるお薬を点滴に入れてあるからね。安心してね」
何が安心なんだ。よくわからない。
でも、普段なら一言くらい噛みつきそうな源さんは、されるがままになっていた。点滴針を刺された左腕が、急に痩せ細って見える。鉢巻きは、ベッド横の脇机に放られたきり。らしくない。
伊藤さんは、源さんのベッド回りを素早く整え、仕切りカーテンを引いて、部屋の灯りを消し、出ていった。横顔には圧があった。何も聞くな、とばかりに。
源さんがあくびをする声がした。このまま眠るつもりのようだ。おれは無理。聞くな、というなら、せめて話させて。
「源さん」
一拍置いて、平坦に「おうよ」と返事があった。カーテン越しだからか、やけに遠い。
「聞いてほしい話があって。あ、何も言わなくていいよ。途中で寝ちゃってもいい」
もう一度、「おうよ」。さっきより、ぶっきらぼうだけど、こっちの方がいつもの源さんって感じだ。
「おれさ、もう少しすると手術を受けるんだ。その前に、父さんが面会に来たがってるんだけど……断ってて」
「……なんでだ」
「こわいんだよ。うちはね、おれのせいで母さんが死んだんだ。入院とか、手術とか、金がかかるでしょ。通信教育も受けさせてもらっててさ。それで、いっぱい稼がなきゃ、って焦って働きすぎたんだよ。もともと体弱いのに。だから父さん、おれを憎んでるだろうなって」
乾いた咳が二回響く。急ブレーキをかけられたみたい。
汗を握る手を、患者着にすりつけてごまかす。母さんが死んだと聞かされた時もこんな風に、暑いのに寒かったのを覚えている。ちょうど、一年くらい前。
「今回の手術も金がかかるんだ……成功するかもわかんないのに。だから本当は、受けたくなかった。金は、稼いだ父さんが自由に使えばいいんだ。うまいもの食べて、好きなもの買って、ぜいたくしたらいい。頑張りすぎて死んじゃう前に」
「それ、親父さんに言ったことあんのか」
源さんは明らかに怒っていた。それだから、答えは決まっているのに、一瞬ひるんだ。
「全部は……言ってない。金の心配は伝えた。『大丈夫だ。お前の体が一番だ』ってさ。それが本当なのか、おれにはわからない。ウソだとしても、子どもらしく真に受けてあげるべきなんだろうな」
「本当と、ウソ、ねぇ」
それ以上、源さんは続けなかった。おれを慰めも、叱りもしなかった。
ただ、たっぷり1分以上は考え込んだ後、「そうだなあ」とこぼした。
「なんで会いに来ねえのかなってのと、会いに来なくて当然だろうってのと、ちょっとでいいから会いてえってのと、死ぬまで会ってたまるかってのと……」
半分寝ぼけているような様子で、まだ続ける。
「おれは全部、本当だから、困るなあ」
そして今度こそ、源さんは何も言わなくなった。いびきすら聞こえない。おれはまだ寝付けなかった。話を聞いてもらったからこそ、両親のことが頭から離れなくて。
源さんの言う通りだ。父さんに憎まれていると思うのも、稼いだ金で自由に暮らしてほしい気持ちも、迷惑をかけ続けるくらいなら死んだ方がいいのも、心配してくれてうれしいのも、見放されないか不安なのも、死にたくないのも、全部、矛盾しながらおれの中にある。
父さんも、そうなんだろうか。母さんも、そうだったんだろうか。
伝えるのも、聞くのも怖い。伝えられず、聞けないまま死んでいくのと、どっちが怖いだろう。
必至に考え続けていたつもりが、いつの間にか朝。
向かいのベッドは空だった。後になって、源さんは夜の間に個室へ移されたと聞かされた。』
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