8月6日

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8月6日

『手術日、一週間前。二人部屋を一人で使う毎日に退屈しきっていた頃、その知らせは届いた。 「源さんね、昨日火葬されたって」 教えてくれたのは伊藤さん。ずっと気がかりだったのに、涙は出なかった。源さん、もう骨になっているんだ。 「病室を移動してからは、ほぼ寝たきりでね……でも奥さんが一度、亡くなる前に会いに来てくれたの! 私たち、一生懸命説得したから」 手柄を自慢する口ぶりが、心底嫌だった。よかった、と思う気持ちが半減した。 そっぽを向くと、伊藤さんは「それでね」と、強引に視界に入ってきた。 「息子さんが、倫児くんに電話したいって。今からいい? いいわよね」 「えっ、なんで」 伊藤さんは勝手に電話をかけて、話し始めてしまった。 無理、と言ったそばからスマートフォンを右手に押し付けられる。「早く」と急かされるまま、慌てて耳に当てる。 ――もしもし。 低くてよく通る声が、すっと入ってきた。何を言われるんだろう。怖い。 「レンジさんですか。源鉄太の、息子です。寛治(かんじ)と言います」 「えと、はい。こんにちは……」 「こんにちは。看護師さんにお願いして、きみに電話する機会を頂きました。体の具合は大丈夫? 少し、時間をくれますか」 返事が思いきり裏返った。この人が源さんの子どもなんて、信じられない。しっかりしすぎている。 「僕は死に目に間に合いませんでしたが、母が駆けつけましてね。あまり会話らしい会話はできなかったそうですが、『レンジ、楽しかったぞ』と言っていたと」 「……そうなんですか」 「どうして家電になんか礼を言っているのかと、不思議だったそうなんですが、看護師さんから、あの人があなたをそう呼んでいたと教えてもらいまして」 あの性格だから、大変な気苦労をおかけしたはず、申し訳ない、お詫びします――次々に言葉が出てくるのがすごい。 でもそれが、おれに向けられている実感が湧かない。 「あの、源さん、いい人でしたよ。確かに変わってたけど、優しくて」 「あんな男のことで、貴重なお時間を奪ってすみませんでした。……迷惑かけた妻子じゃなく、他人に感謝して死んでいくくらい、本当に外ヅラだけは良くてねえ」 冷たくさえぎられた。寛治さんは、「源さんがいい人で、優しい」と都合が悪いようだった。 ここでムキになって「いい人だった」と返しても、意味がないだろう。寛治さんにとっては、そうじゃない。それが「本当」なんだから。 「何も言わないんですね。酷い息子だとか、死んだ親に向かって、とか」 「……」 「……すみません、八つ当たりだ。子ども相手に恥ずかしい限りです。もう、ぶつけ先がないからって」 はっ、はっ。苦しまぎれに足されたごまかし笑いが、源さんそっくりだった。 右手が、ぐんと重くなる。伊藤さんを見上げたら、おれからスマートフォンをかすめ取っていった。「これくらいなんてことは」、「私たち、本当に源さんを気にかけていたので」なんて、ホイッスルみたいに高い猫なで声が響き渡る。 "レンジ、楽しかったぞ" 源さんの声で、脳内再生してみた。たった一週間、お向かいさんだっただけなのに、妙な思い入れがあった。「おかえり」を、言ってあげたかった。 何より、「楽しかった」なんて初めて言われた。おれでも、人を楽しませられるんだ。この話を誰かに聞いてほしい。おれ以外にも、知っていてほしい。それだけでは、今更会う理由にならないだろうか。 「はい~。それでは失礼します」 伊藤さんが頭を下げながら電話を切り、面倒臭そうに溜め息を吐いた。「ねえ」と話しかけると、勘ぐるような視線が返ってきた。 「父さんからの面会希望、受諾できる? ちょっと、気が変わって」 「えっ! もちろんよ。助かるわー」 慌てて伊藤さんが出ていく。「板挟みって嫌になるー」なんて余計なぼやきはさておき、おれはノートを開いた。 これまでの出来事を夏休みの宿題の題材にしたら、色々な人に怒られそうだし、突き返されるかも。だけど、取り上げたい話が他になかった。 ――俺も一週間後には、骨になっているかもしれない。そのつもりで、書ける限りを、ここに記しておく。全部、本当のことだ。』
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