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「飲めよ」
「え?」
キッチンで作ってきた飲み物を、本宮は川島の前に無造作に差し出した。透明なグラスには大きめな氷と薄茶色の液体が入っている。グラスの周りには沢山の水泡が付いていて、プチプチと泡が水面で弾けている。ウイスキーのソーダ割りだ。本宮は川島がそれを好きだということを知っている。
(憎い奴)
川島は何故だか、意味もなくまた涙腺が緩んだ。
本宮は川島の正面に腰掛けると、自分はウイスキーのストレートをいきなり飲み干した。
「はあ~、効くな。お前も飲めよ」
苦虫を噛み潰したような顔で、本宮は川島に早く飲めと促した。
「飲めるかよ。この状況で。バカか? お前」
川島は憎しみを込めて、これでもかと意地悪く言った。
「ああ、バカだよ。もう、すげーバカだ」
本宮は苦しそうに自虐的な言葉を吐き出す。川島はそんな本宮が全く理解できず、苛立ちながら目の前のグラスを掴み取ると、煽るようにそれを一気に飲み干した。
「はあ~、おい! 早くこの状況を説明しろ!」
川島の口調はいつもの倍荒い。本宮の前でこんな風に上から目線で話すのはこれが初めてかもしれない。でもそれは、今自分が感じている怒りを強く目の前のこいつに伝えたいからだ。
「会いたかった。千秋……俺は……我慢ができなかったんだ」
「は? 我慢?」
「実は今、俺は彼女と距離を置いてるんだよ……だからこのマンションのことは彼女には知られてない。一週間前かな、俺はこのマンションに住み始めたんだ。ここは海外に転勤中の兄貴のものだよ。その間俺が自由に使ってる。電話はすべてここからかけた。怖がらせて悪かったな……千秋」
川島は酒のせいで若干麻痺してきた頭に渇を入れると、本宮の話をもう一度ゆっくりと反芻した。
「え? じゃあ、それとこのくだらない茶番劇にはどういう関係があるんだ?」
「……はは、確かにくだらない茶番劇だったな……でも、スリルあっただろう?」
「はあ?」
本宮のその開き直った態度に怒りが再燃し、川島はたまらず目の前の男を睨みつけた。
「何言ってんの? ふざけんなよ。じゃあ指輪は? 俺のポケットの指輪は何?」
本宮は口を閉じたまま何も言わない。川島は苛立ちながら本宮の言葉を辛抱強く待つと、本宮は重たそうに口を開いた。
「婚約パーティーの時に千秋にそれを渡したかったんだけど、やっぱりできなくて、こっそり上着のポケットにその指輪を忍ばせたんだよ。まあ、それでこの計画を思いついたんだけど……」
「えぇ? 何で? 俺に指輪を渡したいって、どういう意味で?」
「お互い結婚しても、ずっと繋がっていたいって気持ちの表れだよ。それ、俺とのペアリングだ」
「ぺっ、ペアリングって……お前まさか両手に指輪はめるつもりじゃないよな?」
気持ちは嬉しいが、本宮らしくないそのロマンチックな発想に、川島は驚きを隠せず声が裏返った。
「……なあ、千秋。今更何言っても言い訳にしか聞こえないけど、今から俺が言うことを真面目に聞いてほしい」
真剣な本宮の様子から、何かとてつもなく大事なことを川島に伝えようとしているのが分かる。それに、こんな本宮の目は初めて見る。自信なさげに揺れる瞳を見ていると、伝染するように川島の心も揺れてしまう。不安だ。目の前に自分の知らない本宮がいる。
「正直に話したんだ……彼女に。俺は女性とセックスはできるけど、本当はゲイなんだってことをさ」
(……え!?)
頭が一瞬で真っ白になった。ここまで連れてこられた犯罪まがいの衝撃よりも、今聞いた本宮の告白の方がずっとずっと衝撃的だ。
「う、嘘だ、そんなの……嘘だろう? 良?」
川島は本宮を下の名で呼んだ。本宮は川島に下の名前で呼ばれるのが苦手だ。今ここで少し甘えるように下の名で呼べば、いつものようにはにかみながら「冗談だ」と言ってくれるに違いない。
「嘘じゃない。本当だ。今まで黙っていてすまなかった。お前との関係が壊れるのが怖くて、言えなかったんだ」
「そんな……」
川島は床と一体化してしまいそうなほど深く項垂れた。目の前のこいつは川島にとって完璧な男の筈だった。何の障害も綻びもない、回遊魚の様に悠々と人生を泳ぎ渉る、川島の自慢の親友。
「お前が見合いをするって聞いて、我慢できなくなったんだ」
「ど、どういう意味だ?」
本宮の言っている意味が川島には全く分からない。
「確信したんだよ。千秋が見合いをするって聞いて、やっぱり駄目だって。自分の気持ちをこれ以上偽ったら俺は一生後悔するってさ」
本宮はそう言うと、自分のグラスにウイスキーを継ぎ足し、またそれを一気に飲み干した。
「彼女に正直に伝えたんだ。俺はゲイだから婚約を破棄してくれって。そしたら、そんなの信じない、意地でもしないって取り乱されて、俺は彼女を落ち着かせるために、一端離れた方がいいと思って、このマンションにいるんだよ」
本宮は大きく息を吐きながら、疲れきったようにソファーの背もたれに体を預けた。
「じゃあ何で彼女と結婚しようとした? 自分を偽って結婚したら、彼女が可哀そうなくらい分かるだろう?」
川島は本宮の行動が全く理解できず、そんな本宮に対し怒りと失望を覚え始める。でも、さっきから何かが引っかかる。川島は何か大切なことを見落としているような感覚に捕らわれる。
「それが自分にとってベストだと思ったからだよ。つまり世間一般の常識に合わせただけだ。彼女を好きかと問われたら、好きだけど、愛してはいないと俺は答える。彼女を抱いても俺は幸せを感じない。足りないんだ。心が別な何かを求めてるんだよ」
「べ、別な何かって何? 良! お前、自分勝手にも程があるぞ!」
これでもかと自分を混乱させる本宮が本当に憎らしくて、川島は声を荒げそう言った。
「まだ分からないのか?」
本宮は「だんっ」と強くテーブルを叩くと、そのテーブルを飛び越えそうな勢いで川島の顔に自分の顔をぐっと近づける。
「わ、分からないよ」
川島は予想外の本宮の勢いに気圧され、腰を抜かしたように浅くソファーに腰掛けた。
「好きなんだよ。千秋が。何で分かってくれない? ずっと、ずっと好きだったんだよ」
「ええ?!」
「千秋が見合いするって聞いて、俺は居ても立っても居られなかったんだよ。とにかく千秋が見合い相手に対してどこまで本気なのか知りたくて、こんなめちゃくちゃな計画を思いついたんだ。多分最近の俺はかなり冷静さに欠けてたんだと思う。だってお前だったら誰のことも見捨てたりはしないのに。それでも俺は……お前が見合い相手ために勇気を出してここまで来たことが、死ぬほど辛かったよ……千秋、彼女とは結婚するんだろう?」
途中から本宮の声がひどく遠くに聞こえた。多分川島の頭が、本宮の告白を無意識に拒絶しているからだ。だって、川島の知る本宮はこんな愚行などしない。常に上から目線で川島を見る、嫌味なくらいの自信家で……そんな本宮が川島を好きだなんて、絶対に有り得ない。
「りょ、良……俺を好きなんて、冗談なんだろう?」
川島はどうしていいか分からず、締まりの無い半笑いの顔で問いかけた。
「冗談でこんなバカはしない」
「い、いや、だって……」
川島はついに、本宮の輪郭が、ほろほろと崩れていく幻覚を見始めた。不安は見事的中した。ここにいる男は、川島の知る本宮じゃない……でも、川島は何とか心を奮い立たせると、自分の知る本宮を意地でも再生させようと試みる。
「良、お前みたいな完璧な男がさ、こんなバカげたことしないだろう普通。なあ、冗談なんだろう? もしかしてドッキリカメラとかしかけてんの?」
川島は平静を装いながら、努めて明るくそう言った。
「冗談じゃないって言ってんだろう!……分かった。伝わるまで何度でも言ってやるよ……好きだ。千秋、俺はお前を愛してる」
その決定的な言葉に、川島の心臓は、「びくん」大きく跳ね上がった。それによって自分は、まるで魂が抜けた死人のように呆然と一点を見つめた。
「……マジかよ」
川島は絞り出すように呟くと、ずるずると床に滑り落ち、頭だけをソファーに乗せた。
「……ちょっとたんま……マジで混乱する。俺、外で空気吸ってくる」
川島はそう言うと、ひどく重たい体をゆっくりと起こした。
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