絶望

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「ーーーーっ?!」 目を開けると同時に体を捻る。 上体を起こす間もなく畳を這って、床の間に鎮座した刀に手を伸ばした。 自分の息づかいがよく響く、逃げても逃げても追いついてくる恐怖がすぐそこまできている。 体を起こし、なりふり構わずに鞘を抜く。 掴んだ刃が手を裂いて痛みに一瞬戸惑ったが構うこと無く切っ先を自分に向けた。 荒々しい呼吸を整える間すら惜しい。 構えた刃先がガタガタと揺れる。 痛いのは嫌だ。 怖いのも嫌だ。 それでも あんな、あんな奴にやられるくらいなら。 あんな目に合わせられるくらいなら。 この恐怖を終わらせられるなら。 自分の胸に目掛けて力の限り切っ先を引き寄せた。 「...露理」 耳元で声がした。 何度か呼ばれた名だ。 ガタガタと震える切っ先は私の前で止まっている。 「露理」 もう一度呼ばれて刺さっている刃を見る。 後ろから覆い被さり私の代わりに刺さっていたのは彼の腕で、ボタボタと血を流しながら刃を止めているのは彼の手だった。 「...手を、放して下さい」 やっと喉元から出た声はひどく震えて、呼吸がうまく出来ない。 「お前が先に放せ」 放さなければいけないのはわかっている。 それでも、指が動かない。 痛みすら感じぬほどに、恐怖だけが体を蝕んでいた。 「露理」 名前など、欲しくはなかったのに。 「大丈夫だ」 大丈夫なわけない。あの夢をこの人も見た筈だ。あの痛みを、恐ろしさを知っている筈。 動けない私の指を哉彌は添うように一つずつ刃から引き剥がした。 刺さった切っ先を抜いて刀を放っても彼は腕を放さない。 「...あなたを心から恨みます」 少しでも落ち着きを取り繕って彼に言う。 膝の上に置いた両手は赤く血が流れ、どくどくと波打つ痛みと震えが治まらない。 「痛みを知る前だったならあれほどの苦痛を味わわなくて済みました。あれだけの恐怖に屈することも、これほど惨めな思いもしなくて済んだのです。あなたが、初めに殺してくれていたら」 夢の中だけなら、まだ耐えられた。 痛みを知る以前ならまだ。 「卑怯者と、臆病者と罵って頂いて構いません。私は、自分の死の恐怖から、あの痛みから逃げるためにあなたを呼んだのです。」 「...」 「殺してくれと頼んだではありませんか。 それなのに、それすらしてくださらないならいっそあの場に捨て置いてくれればよかったのに。わかっていたでしょう、私は外に出たところで長くは生きられない。あなたの親切心(自己満足)が、私を」 振り向けば彼の顔がすぐそこにあった。 「私をこれほどまでに苦しめるのです!」 溢れた涙で顔もろくに見えやしない。 怒っているのか、悲しんでいるのか、それすらわからない。 「...っ」 叫び疲れて、喉が痛い。 流れる血が熱く切れた指が痛い。 子供のように泣き続ける私に哉彌は黙って手当てをしてくれた。その後で自分の手を包帯で巻く彼に手を貸す。 止血したとはいえ、包帯は赤く滲む。 「痛くは、ないのですか?」 そんな筈無いだろうに顔色一つ変えない哉彌に訊いていた。 「慣れているからな」 「...そう、ですか」 これほどの傷で顔に出さないのなら先程の夢など、この人にとってたわいもないことなのかもしれない。 「...取り乱してしまい、すみません。 あれは、私の罪なのです。あなたを選んだ私の罪。死ぬべき所で死なずに生き永らえてしまったわたしが引き起こす厄災。」 哉彌は相変わらず黙っている。 知りたかったのはこれではないのだと知っていても話してしまう。 「私が視る未来()をただの一度も変えようとしなかったと思いますか?何度も抗った、足掻いて変えられるようなら何度も試した。それこそ、あなたのご両親の時も」 あなたの事を知った時、出来得る策は全て講じた。けれど、結果は変わらなかった。 「変わらないのです。何をしても、どんなに足掻いても足掻くほどに結果はより悪くなる。」 視ることしか出来ない私には何も、出来ない。 「変えようと足掻いたのだろう。なら、最後まで足掻け」 簡単に言う。 この人は。 どれほどのことがこれから待ち受けているのか先程見た筈なのに。 「お前は足掻いて、結果は変わった。 それが望んでいたものとは違っていたとしても、未来は変わる。気に止めるべきは変わったという事実だけだ。」 「それが、本来なら味わう筈のなかった痛みを伴うことでもですか」 巻き終えた包帯から手を離す。 手の震えは相変わらずで、すぐさま膝の上で握りしめた。 この人は、本当に強い人なのだ。 私と違って。 「あの痛みをどれだけの人に味わわせれば気が済むのですか。苦しみも、痛みも、私一人が我慢さえすれば一瞬で終わるのです。アレが目覚めればそれこそ一瞬で灰になれる。苦しまずに逝けるのです。」 「...それは、本当の災厄はあの夢ではないということか」 きつく、握った手からまた血が滲む。 これ以上は無意味だ。 何を話しても、彼は考えを変えないだろう。 いつか来る破滅までに彼は生き残ることは出来ないのだろうから。
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