桜の舞い散る頃に

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「隣いいですかな」  ベンチに座る俺に、同年代の年配の男が笑いかけてきた。俺は曖昧に笑い返し、頷いた。  ベンチの隣に舞い落ちている桜の花びらを軽く払ってやると、男は杖をベンチの上におろしそこに腰かけた。 「いや、見事ですな」  男が空を見上げて呟いた。ベンチの横に植えてある大きな桜の木から、花びらがひらひらと舞い降りてきている。晴れた朝の空の水色と桜の薄紅色。目の前の青い川面にも、花びらがゆるりと浮かんでいる。  俺はその花びらから目を逸らした。 「まあ、そうですね」  俺は曖昧に頷いた。  桜は嫌いだ。  でも、あと少し。あと少しすれば桜の花びらは全て散る。そして青々とした葉桜の季節がやってくる。  もう桜を意識しなくても良くなる。  男は不思議そうに首を傾げた。 「おや。貴方はここに桜を見に来たわけではないのですか?」  男の疑問は尤もだ。川沿いのこの桜並木は、観光地というほどではないが、毎年花見に訪れる人が多い。  俺は微笑みながら答えた。 「人に会いに行く途中なんですよ。ちょっとくたびれてここのベンチに座っていただけで。そちらは、お花見ですか?」  俺はこれ以上自分の話をしなくていいように、話を相手の男に振った。男は目を丸くして、そのあと考え込むように顎に手をやった。 「言われてみれば、何故でしょうな。なんでここに来たのか」  そして上を見上げた。 「綺麗な桜の花にでも誘われたのかもしれませんな」  桜は嫌いだ。  人を誘うから。  俺は立ち上がった。男がこちらを見上げてきた。 「もう行くのですか」 「はい。待っている人がいるもので」  そう答えると、男は「そうでしたな。いいですなあ」と微笑んだ。 「あ、勝山さん」  ロビーで待っていると、何度か顔を合わせたことのある中年女性が小走りに駆け寄ってきた。 「ごめんなさいね、おじいちゃん今、出掛けちゃったみたいで」  その介護つきマンションのロビーには、女性の旦那さんと思われる男性が大きなボストンバッグを持っていた。笑顔で軽く頭を下げてこちらに向かってくる。  俺はよいしょと立ち上がって二人に頭を下げた。 「いやいや、いいんですよ」  女性は申し訳なさそうに顔を曇らせた。 「勝山さんには、ほんとおじいちゃんがよくしてもらったみたいで。電話でも『今日は勝山さんと将棋をさした』とか楽しそうに言ってて。できればこのマンションにずっといられれば良かったんだけど」  俺は視線を逸らした。 「去年大怪我をしてしまったから心配で。その関係か最近物忘れも激しいみたいだし、認知症の発症の不安もあるし。やっぱり一緒に暮らそうと思って」  旦那さんが頭を下げた。 「親父が大変お世話になりました」  俺はもう一度頭を下げた。心の中で懺悔しながら。 「では、彼によろしくお伝えください」 「戻ってくるまでいないのですか?」  旦那さんの言葉に俺はゆっくり顔を上げた。 「最後にちょっと顔を見たかっただけなので、いいんですよ」  もう、叶ったから。  帰り道、あのベンチにはまだあの男がーー友が座っていた。舞い散る桜の花びらを見上げながら。  俺は地面に目を落とした。  あの日、花見になど誘わなければ。  あの日、桜の花びらが舞い散っていなければ。  後ろから暴走してくる乗用車に気づいたかも知れなかった。  大怪我をすることもなかった。  俺を忘れてしまうこともなかった。  引っ越して俺の前からいなくなってしまうこともなかった。  ーー何より、友の心身が蝕まれてしまうこともなかった。  桜が咲いていなければ。  早く友の前を通り過ぎようと足早に歩く。 「綺麗ですなあ」  友が呟いた。俺のほうを見る瞳は、友が数刻前に会った俺のことを既に忘れていることを物語っていた。  俺は今度は何も口を聞かずに会釈だけして前を通りすぎようとした。 「でも、あの時の桜が一番綺麗でしたなあ」  友は一人言のように呟いた。俺の足は止まった。 「去年、だったか。あれは綺麗だった」  友は俺を見ていない。ただ、青い空に舞い散る桜の花びらを見ている。 「あの桜を見る為に、俺は生きていたのかもしれんなあ」  友は嬉しそうに皺の多い顔を揺らした。  俺は友に頭を下げた。そして無言でその場を離れた。  その言葉を聞けただけで、もう十分だった。  空を見上げる。  空に舞い散る桜を、先程より少しは綺麗だと思えるようになった気がした。 おわり
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