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私達は子供のいない夫婦だった。
夫は外で友達と遊ぶことが好きで、私は家のなかで本を読んだりすることが好きだった。だから休日は互いに別々で楽しんでいた。夫の職場は出張も残業も多いので家事は私がほぼ担当していた。私も働いていたが不満はなかった。夫は手のかからない人だった。生活費は半々。給料の残りは互いに自由。私は貯金していたが夫がどうしていたかは知らない。そこはプライベートだと思っていた。
そうやって二人で年老いて行くのだと思っていた。
でも夫は出張先で突然死した。心臓だった。
呼ばれて病院に着いたら夫はすでに意識不明で後はいつ管を外すかだけだった。
言われるまま病院やら夫の宿泊先の料金を払い、義母の「あなたがちゃんと息子に気遣いしていたらこんなことには」攻撃をかわし寸刻みで走りまわった。悲しむ間などなかった。だから一人で行ったはずの出張なのに宿泊代が高かったこと、一人で泊まったわけではないこと、考えが及ばなかった。
夫の葬式当日、式場の隅で夫の同僚の佐々木さんが女と揉めている。女は夫の会社関係者ではなさそうだし親類にも思い当たる人はいない。女は幼子を連れている。
近づくと「ほら、お父さんよ。最後だからね。よくみとくのよ」とハンカチを握りしめ、佐々木さんには「離して。あたしにも息子にも権利があるんだから。認知だってしてもらってるんだからね」と喚いていた。
女のまわりにはかるく人垣ができ、皆、眉をひそめている。
「あの」
声をかけたら女がこちらを向いた。綺麗な女だった。
「この度はご愁傷様です」
ウェーブのかかった髪の毛を耳にかけ、女は頭を下げた。女は私の顔を知っていたのだろう。私が喪主だとわかって挨拶をしている。
「ほら、あんたも頭下げて」
子供の頭に手を添え、子供に頭を下げさせた。
「あたし、ご主人にお世話になってて。なんて言ったらいいか、あ、この子、ご主人との子供です。似てるでしょう? ご主人も、俺の子供の頃そっくり、って言ってました。将来偉くなれるようにエリートって名前つけたんですよ」
女は『栄璃伊斗』と書いてある折り畳まれた紙をみせてくれた。
「突然、びっくりなさったですよね。でもあたし不安で。お金のこともあるし一度お会いしといた方がいいと思って」
それから「奥様には出張って言ってたと思うんですけど」と私に言う。
「じつはあたしと息子と一緒に家族旅行行ってたんです。元気でしたよ、昼間は。でも夜、お酒飲んでたら急に意識なくなって。救急車呼んでもらって。息子と一緒に病院で待ってたら『奥様ですか』ってきかれて。あたし籍は入ってないから違うって言ったら『至急、身内の方を呼んでください』なんて言われたから佐々木さんに電話したんです」
夫の同僚の佐々木さんはバツの悪そうな顔をして、私と目を合わさなかった。
「何かあったら佐々木さんに連絡をとれ、ってご主人に言われてました。それから佐々木さんが病院まできてくれて、とりあえずあたし達は帰った方がいいということになり帰りました。ご主人の最後、ききたかったでしょう? あたし、絶対教えてあげようと思って」
女はべそべそ泣きだしファンデーションがまだらになっている。
「ご主人、あたしが勤めてた店に客としてきてくれて、店ってキャバレーなんですけど、つきあいはじめて、あたし妊娠しちゃって、そうしたら産んでくれって。奥様、病気で子宮とっちゃったんですってね。おかわいそうに。だからあたし産んであげたんですよ。店辞めて。ご主人がお金だしてくれるって言うから。息子生まれたとき喜んでくれました。それからずっと可愛がってくれました。でもご主人亡くなってしまって。これからどうやって暮らしていけばいいの。ご主人、お金のことは心配するなって言ってたんですよ。あたし達にお金いるから高収入の奥様に生活費みてもらうから、奥様とは離婚できないけど、あたし達のことは一生面倒みるって。愛してるのはあたしだけ、あたしといると癒されるって。うちに帰ってもつまんないから出張だとか残業だって言ってうちにきているんだって、そう言ってたんだから」
しだいに女は興奮してきて子供のようにわんわん泣きだした。夫はこの女のどこがよかったのだろうか。女の魅力がわからない、ということですでに私はつまらない女なのだろうか。
女の子供は、無表情で母親のことを眺めている。
「息子に子供がいたんですって?!」
義母が小走りでやってきた。
「この子? まあ、まあ、男の子じゃないの!」
人々は集まり、私達を囲っている。佐々木さんはいつの間にかいなくなっていた。義母が「息子にそっくり」とはしゃいでいる。女の泣き声はますます大きくなる。女の子供は何も喋らない。
私はそっとその場を離れ式場の外へでた。そして、そのまま自宅へ戻った。
もちろん、その後、大騒ぎになった。
事を治めるのは大変だった。
大変と言っても葬式をもう一度することはなかったし、会社の方は佐々木さんが根回しをしてくれた。皆、私に同情的だった。私は夫に裏切られた可哀想な未亡人なのだ。ただ義母には通じなかった。
「あんなに有名な会社に勤めていたのよ。息子には貯金があったはず」
夫に貯金はなかった。全てあの母子に使ってしまったのだろう。
「あなたにはわるいと思っているの。息子が長いこと裏切っていたのだもの。だからあなたが葬式逃げちゃったこと責めないわ。会社の人達があの後おさめてくれたし。でもねえ、あの人はちょっと変わった人だけど男の孫を産んでくれたわけじゃない? あなた働いているし石女だと再婚も難しいでしょう? 保険金とかでたんでしょう? あたしのことは心配いらないから孫にお金譲ってあげてよ。あの母親だときっと苦労するわ。ときどき様子みてきてあげて。あなたの夫の息子なのよ。あなたにとっても息子でしょ」
電話口で義母はずっと喋っている。義母は毎日、電話をしてくるようになった。あの母子にときどき会いに行っているらしい。孫は息子に似ていて聡明だそう。あまり喋らないが話しだすと頭のよさがわかるのだそうだ。
たしかに夫は頭のよい人だった。夫の息子は今年、小学校へ入るらしい。少なくとも7年、私は騙されていたことになる。簡単にできることじゃない。
私の憤りはどこへ吐きだしたらよいのだろう。憤りを受けるはずの夫は死んでしまった。
あの母子には不思議と恨みはわいてこない。むしろ同情した。義母の言うとおり、あの母親だと苦労するだろう。孫もだがあの母親もだ。夫は自分があんなに早く死ぬとは思ってもみなかったに違いない。あの母子にはなんの手当ても残されていなかった。母子のための保険さえも入っていなかった。
「ちょっときいてるの。大切なことよ。あたしも未亡人で年金暮らしでしょ、お金がないのよ。あなただけが頼りなの。ね、せめて孫が大学へ入るぐらいまではあなたが世話してあげて」
通話を切りたかったが切るとかえって面倒なことになりそうだったので、スマホはテーブルの上に置きっぱなしだ。私は、はあ、とか、そうですね、とか、ときどき返事をしている。
「それにしてもまあ、孫のあの名前。あれはないわ」
義母は溜息をついて通話を切った。
夫の遺骨は火葬場からかえってきてから、生ゴミと一緒に紙袋に何重にも包んでゴミの日にだした。だしてから数週間経っているのですでに処理されているだろう。私は夫のことを憎んでいる。憎しみは私が生きている限り続く。ゴミとして捨てたことになんの後悔もない。
骨つきチキンを食べているので私の手は油でベトベトだ。チキンを食べ終わって骨が残ったら、低温度で長時間、オーブンで骨を焼いてみよう。遺骨と同じ感じになればよいのだけど。ならなかったら遺灰のような白い砂を買ってきて骨壷に詰めておく。骨壷なんてそうそう開ける機会はないだろう。重ささえ同じようだったらその辺の石でもいいかもしれない。
保険金や諸々の手続きが終わったら婚族関係終了届をだす。義母ともお別れだ。義父は義母に家を残して亡くなった。その家に義母は今一人で住んでいる。あの大きな家に孫と一緒に住めばいい。婚外子の孫があの家の空っぽの骨壷を守っていく。チキンの骨が入っている骨壷だとさらにおもしろいな。
ざまあみろと思った。
私は夫の葬式で夫に愛人と子がいたことを知った。
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