3.忌み子

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3.忌み子

「そなたは……もしや、贄だった娘……では」  若者の声にはっと女が顔を上げる。その女がまとう衣は垢じみていたが、まぎれもなく山の神へと捧げられる娘が纏う白衣であった。 「なぜ、こんなところに……。いや、では、山の神に生き血を吸われ殺されたというのは……」  唖然とする若者を尻目にどっかと地面に腰を下ろした山貴は、地面に転がっていた薄汚れた土の器を手に取る。平伏していた娘が慌てたように山貴の元へとにじりより、山貴の差し出した酒甕を開ける。器でじかに酒を掬った娘は器を山貴に差し出した後、すうっと後ずさった。その彼女を見もせず、山貴は酒をぐいとあおった。 「里はずっと不作続きだそうだな。だがこの酒のなんと美味なことか。人が飢えようと神への捧げものは惜しまぬ」  ぐいぐいと器の中身を干し空になった器を娘へ向かって突き出すと、娘は震える手で器を受け取り、再び酒を掬った。娘から差し出された器をひったくるように受け取り、口をつけながら、山貴は嘲笑った。 「今年はぬしをここに送り込んだというのに酒も米も捧げものは去年と変わらずよこすあたり、ぬしの力など里人は信じておらぬのだろう。ぬしが失敗したとしても捧げものはある。まこと人とは底の浅い生き物よ」 「お前も人であろうが」  若者が声を荒らげると声が洞の中、反響した。娘が大声に短く悲鳴を上げる。そのか細い声を聴いたとたん、山貴の中の何かがうごめいた。手にした器を放りすて娘の喉笛を掴むと、娘の悲鳴が途切れた。げふり、と濁った吐息が洞の中に響いたが山貴は手を緩めることはなく、両手で若竹のような娘の首を絞めあげる。山貴の力から逃れようと娘は足をばたつかせる。が、山貴は娘の背を地面に押し倒し、膝頭で娘の腹部を押さえつけた。  我知らず笑みがこぼれる。消えゆく娘の吐息と入れ替わりに高らかに笑いながら山貴は娘の首を絞め続けた。 「おい! よせ!」  若者が背中で刀を抜く音が聞こえる。しかしその刃が振り下ろされる前にごりり、と山貴の手の中で音がし、娘は白目を剥いて動かなくなった。 「あっけない。まことあっけないものよ」  笑いを納め、山貴は娘の首から手を引く。か細い娘の体から体を引き、山貴は娘を見下ろす。若者の殺気を背中に浴びながら山貴は囁いた。 「のう、この山の神の名、山貴。その名の所以をぬしは知っておるか」 「所以……?」  警戒を露わにしながら若者が問う。山貴は今朝までは確かに動いてそこにいた娘の亡骸を見下ろしながら頷いた。 「山を貴ぶ。山貴。だがな、まことは山に忌。山に捨て置かれた忌み者。山忌。それが山の神、いいや、わしの名だ」  若者がふっと背後で息を呑む。山貴はこときれた娘の髪を撫でながら続けた。 「わしは子どもの時分に、山の神に食われよとこの山に捨て置かれた。わしが人を殺めることに愉しみを覚える忌み子だったからだ」  黒い髪を細い指先に巻き付けてみる。髪などもとより温度がないもののはずなのに、娘のその髪は常のそれよりもずっと冷たく山貴の指に絡みついた。 「生きておる者の命を手折るとき、わしは笑うことができる。誰しも笑うものだろう。笑うことは尊きことだろう。なのになぜわしだけが咎められるのか。わからぬまま捨てられた」  薄汚れた娘の頬をそうっと撫でてみる。ほのかに温かかった。その頬を痩せた掌で覆い、山貴は言葉を継ぐ。 「山犬の多い土地だ。死んだと皆思ったのだろう。事実、わしのような忌み子は山犬に噛み殺され皆死んでいったのだからな。だがわしは死ななかった。山犬を殺し、その肉を食らい、生き延びた」  白目を剥く娘の顔を覗き込み、山貴はふと思う。この娘の笑った顔を自分は見たことがあったろうか、と。そうして記憶のどこにも娘の笑みがないことにわずかながらの軋みを胸に覚えながら山貴は言った。 「そうしてわしは知った。この山に神などいないことを。いもしない神に里の者がかしずき続け、贄を差し出し続けていることを。……のう」  若者に呼びかけ振り向くと、若者がふっと目を見張った。  驚きを宿した若者の顔を見つめながら山貴は囁いた。 「死は皆同じ重みだとぬしは言う。だとしたら、一年に一度山の神に捧げられた娘を、わしが笑うためにわしが殺しても……わしは許されるだろう? ここに神などいない。神がもしもいたのなら……わしのような者を罰してくれるはずだろうから」  棒を呑んだように立ち尽くした若者はそのとき見た。  目の前に立つ醜き咎人の頬を一筋の涙が流れ落ちるのを。
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