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(ああ、やっぱり。いらっしゃったわっ!!)
神に感謝しながら上がった息を整る。ニヤニヤとして締まりがなくなった顔を引き締め、何でもないような顔を作って入室する。
平日も休日も図書室は閑散としていて、常連ともいえる決まった数人しか来ていない。
本棚からタイトルも見ずに数冊抜き取っていつもの席に座る。目的の人物はいつも前から五番目の窓際の席に座ることに気がついてからは、もっとも素晴らしい角度から眺められるこの席がわたしの指定席になっていた。
(ジャレット公爵令嬢、コルネリア様! 本日もなんて凛々しいお顔をされているのかしら。美しく伸びた背筋に宝石のように高貴な紫色の瞳。憧れますわ……っっ!)
先ほど持ってきた本を顔の前に広げ、表紙の陰から熱視線を送る。
観察を始めたころ、我を忘れて眺めすぎてしまい、視線に気付かれてしまったことがあった。困ったように会釈をしてくれる姿も尊かったけれど、困らせたくはないので以後十分に気をつけている。
(お姿だけでなく、コルネリア様は心まで美しいんだもの。コルネリア様が王太子妃になるのだから、この国の未来は安泰ね!)
家族から虐げられているわたしは、貴族令嬢令息が通う華やかなこの学園でも、見た目の地味さが影響して友人がいなかった。わたしの家は弱小伯爵家だから、繋がる旨味もないんだと思う。
いじめを受けているわけではないけれど、クラスメイトからは存在をまるで無視されている。彼女が時間を潰すために――家に帰りたくないがために図書室に入り浸るようになったのは、ごく自然な流れだった。
図書室はいつもガラガラだったから、居心地はよかった。
イチャイチャして勉強や読書などしていないカップルが一組、丸ぶち眼鏡をかけた真面目そうな男子学生、そしてコルネリア様というのが固定メンバー。テスト前になると少しだけ利用者は増えるけれど、いつも変わらず静かなこの空間に身を置いて物語の世界に身を投げると、辛いことを忘れられた。
わたしがコルネリア様を『推し』ている理由は見た目だけの話ではない。
二年次の女子ナンバーワンの秀才であるとか、三年次に在籍する第一王子ユージーン殿下の婚約者であるとか、そういうことでもなかった。
それは、わたしが図書室に通い始めるようになってから間もなくのこと。丸ぶちメガネ君が、よいしょよいしょと運んでいた本の山を、何かに躓いて派手にぶちまけてしまい、はずみで近くに座っていたコルネリアのペン壺が倒れて派手に汚れてしまったのだ。
図書室にいたすべての人間――実質わたし一人だけれど――は「あ、終わったな」と思った。コルネリア様が書いていたノートは完全にダメになっていたし、なんならスカートにも少し掛かってしまっていた。激怒されても仕方ない状況だった。
それなのに、コルネリア様はにこやかな微笑みをたたえたままこう言ったのだ。
「お怪我はありませんこと? 拾い集めるのを手伝いましょう」
「あっあっ。ご、ごめんなさい。汚してしまいました」
「お気になさりませんように。もう一度書けば反復になって覚えが良くなりますから」
「せ、制服も……」
「あら? これはきっと、自分で汚してしまったのですわ。薬草学の授業中にインクが垂れてしまいましたのよ」
――といった具合に、恐縮しきりのメガネ君に神対応をしたのだ。
少し離れた場所から顛末を目撃していたわたしは、文字通りまるで物語に出てくる女神のようだと感激したのだった。
コルネリア様の四つ前がイチャイチャカップルの指定席なのだけれど、彼らがどんなにベタベタしようとも決して心を乱すことはない。キスをしていようが怪しく手が動いていようが、コルネリア神は菩薩の顔でノートにペンを走らせる。煩悩などとは無縁の尊い存在なのだ。
自分のような者に興味を持たれては迷惑だろうと、わたしは極力気配を消して推しの観察を続けていたのだけれど。一度やらかしてしまったことがあった。
日当たりのよい図書室はぽかぽかとして暖かい。その日わたしは前日夜遅くまで母にこき使われていた疲れから居眠りをしてしまっていた。ビクッと身体が揺れた拍子にペンが机から落ちて、コルネリア様の足元に転がっていってしまったのだ。
しまった、と跳ね起きてももう遅い。あれは自分にとっては一本しかない大切なペンだけど、ミアのお下がりを数年使い続けているからボロボロだ。公爵令嬢からしたらゴミ同然の代物だろう。
恥ずかしさで固まっていると、――神はやはり微笑んだ。
「……こちら、あなたのペンかしら」
「あっ……はい! 申し訳ございません。お足元を失礼してもよろしいでしょうか」
当然自分で拾おうとしたけれど、コルネリア様はさらりと艶のある黒髪を耳のあたりで抑えながら身を屈めた。
「はい、どうぞ。……こんなに使い込んでいらっしゃるなんて勤勉なのね。お勉強、がんばってね」
「あ、ありがとう、ございます……」
向けられた凛々しく美しい笑顔が、脳裏にくっきりと焼き付いた。
暖炉の前に一時間も座っていた時のように、熱くぼんやりとした気持ちでふらふらと席に戻る。
しばらく放心状態でぼうっとしていたものの、やがてじわじわと涙があふれてきた。
(初めてだわ。誰かに認めてもらえたのは)
家でも学園でも。能無しだとか地味だとか言われ続けていた自分にとって、初めて掛けられた肯定の言葉だった。
コルネリア様は人をステータスで判断しない。悪い所ではなく良い所を見て下さるお方なのだと実感してから、もしコルネリア様に何か不幸が起こるようなことがあったら、自分は絶対に味方になろうと強く心に決めたのだった。
(――――でも。コルネリア様は王弟殿下が当主を務める公爵家のお一人娘ですし、第一王子殿下のご婚約者様ですから、そう悪い目には遭わないと思いますけれどね。それに、万が一があっても、わたくしのような小粒に何ができるというわけでもないんですけれど……)
数刻前の床磨きで酷使した太腿をさすりながら考える。
物語の中で、自分のような人間はいつだって脇役だ。コルネリア様のように賢く美しいお姫様がいて、その隣には強くて優しい王子様がいて。自分は後ろの方に並ぶ、顔すらはっきりと見えない “その他大勢” がいいところだ。
わたしは誰にも気づかれないように、小さくため息をついたのだった。
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