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「それで? 今回、君はどんな本を読んだんだい?」
彼女は、少し前のめりで僕に訊く。
「大浦保の、硝煙の怨歌」
「ハードボイルドアクションの名作だね。渋めのチョイスだ。文学なのかエンタメなのかと、様々な評論がされた作品でもある」
「そんな深い読み方はできてないけどね」
「深さなんて関係ない。いいかい? 読書は体験なんだ。私たちは、読書という行為を通じて、作者の意図や、その時代性というものを、追体験できる。そうして、そこから得た何かしらが、私たちの読書遺伝子となるのさ」
大真面目に彼女は言う。
「初めて会った時のこと思い出すな」
「あれは、彼らが悪い。読書という行為を、批評という檻に閉じ込めるのはよくないことだ」
心底納得いかないという様子で、彼女は続ける。
「読書サークルじゃなく、批評サークルとか、研究サークルに名称を変えるべきだと私は思うよ」
「僕からしてみれば、直のほうがよっぽど変だと思うけど」
「でも、君は私と話す方を選んでくれたじゃないか」
彼女は、そう言って笑う。
「あのサークルの中で、一番面白い感想を語ってたのが直だったから」
僕は本を読むのが好きだ。そして、読んだ本について語るのも好きだ。だから、大学に入学し、読書サークルというものを見つけた時は、嬉しかった。
みんなで本について語らう、面白そうだ。そう思った。
けれど、サークル体験でのぞいたそこは、なんというか、とても偏屈な人たちが集まっていた。
文学こそ至高。
これを読んでいないなんてありえない。
そんな言葉が交わされ、語り合う感想も、なんだか小難しくて、何ひとつとして頭に入ってこないし、恐ろしく退屈だった。
僕は文学はあまり得意ではなく、アクション小説のような、ストレートな娯楽作を好んで読んでいる。
ここにいる人たちには、きっとバカにされるだろう。
途中退室できないだろうか。
そんなことばかりが頭の中をめぐっていた時。
「読書というのは、体験であるべきです。みなさんが語られることは、ただの情報ばかりで面白味がありません」
いきなり、そんな言葉が聞こえた。
それが、村上直と、僕のファーストコンタクトだった。
「しかし、せっかくこうして出向いたのですから、本については語りましょう。このサークルで語るのは、最初で最後になりますが」
そう言い、彼女が掲げた本。それは、現在海外で暮らしている作家、塔坂樹の作品だった。それについて語る村上直の言葉は、淀みなく僕の中に入ってきた。文学に苦手意識があるにもかかわらずだ。
「以上になります。それでは」
本について語り終えると、村上直はさっさと部屋を出て行った。誰もが呆然とする中、僕はなぜか、彼女を追いかけなければと感じた。
引き留める声を無視して、僕も部屋を出る。少し遠くなった背中に、声をかけた。
「あの!」
立ち止まり、周りを確認し、それから振り返る。そうして、自分の顔を指さして、首を傾げる。
「そうです。あなたです」
いきなり話しかけるって、どうなんだろうか。ナンパかなにかと勘違いされそうだ。けれど、彼女は気にしていない様子で、ずんずんと距離を詰めてくる。
そうして、すぐ目の前に立つと、何も言わずに僕をじっと見る。
「あの、僕、あなたと本の話がしたいんです」
「どうして?」
「あなたの語りが、とても面白くて。もう少し、あなたの話を聞きたいと思いました」
僕がそう言うと、彼女はとても喜んだ。
そこから、僕と直の交流ははじまったのだ。
互いに本の感想を言い終え、ここからは雑談というのがいつもの流れだ。
「翻訳は進んでる?」
僕が訊くと、直はうなずいた。
「楽しくて仕方がないよ。一日中作業していたいくらいさ」
直は、敬愛する作家、塔坂樹が海外限定で出した作品を、個人的に翻訳していた。英語が堪能で、原著でも問題なく読める彼女が、なぜそんな手間をかけるのかというと、彼女の夢が、翻訳家になることだからだ。
「翻訳を終えたら、最初の読者は君だからね」
「わかってるよ。でも、ちゃんとした感想言えるのかな。直に借りたものですらまだ読み切れてないのに」
塔坂作品はいくつか映像化されており、その中でも、最近映画化され、海外で賞を獲ったことで話題になった「七月の晴れた日、君との語らいについて」という短編が収録されたものが読みやすいとのことで、それを貸してもらったのだが、ほとんど読めていなかった。
「通しで読む必要はないんだよ? パラパラとページをめくりながら、何か引っかかる言葉があれば、それを読めばいい。もし、それしか引っかかりがなかったのだとしても、それでいいんだ。なぜなら……」
「読書は体験。何を読んだかではなく、どう読んだのかが大事なんだろ」
「その通り。だから、無理に理解しようとしたり、考えたりせず、ばーっとテキストを追いかければいいのさ。そこで、この表現いいな、みたいなものを見つけられたら、その本は、君にとって意味のある本になる」
「そうだといいけどな。あ、映画も観に行ったよ。」
「いいじゃないか。どうだった?」
「長いっていうのが一番の感想。お尻が痛くなった。きっと映画好きの人は、お尻の筋肉が発達してるんだ。じゃなきゃ、三時間も集中して座ってらんないよ。でも、設定は面白かった」
直はくすくすと笑う。
「確かに、ここ最近の映画の中でも、上映時間は長めだね」
「というか、もとは短編なんだろ? どうしてあんなに長い上映時間になるんだろう」
「原作にある要素を、拡張してるのさ。その広がりが、あの映画にオリジナリティを加えてる。原作好きも納得の映画化だった」
映画のことを思い出しているのか、直は興奮した様子で言う。
直は、いつもまっすぐだ。
言葉のひとつひとつも、夢に対しても、こういう語らいの時間でも、常にまっすぐに自分をぶつけてくる。
僕は、そんな直のことが好きだった。友人としてではなく、一人の女性として。
けれど、その気持ちを伝えることなく、僕らはそれなりの時間を共に過ごしている。それはそれで居心地がいいのだけど、それでいいのかと思いもする。
いつか、気持ちを伝えられる時が来るんだろうか。
いくらかの時が流れ、そろそろ夏休みというころ、直は大学に来なくなった。
メッセージを送っても反応がなく、そのまま一週間が経過した。流石に心配になってきた時、突然、直からメッセージがきた。
明日、昼に大学近くのカフェで会おうという内容だった。
気が気でなく、僕は半分上の空で午前の講義を受け、昼になると、急いで待ち合わせ場所のカフェに向かった。
「やあ」
直は、いつもと変わらない様子でいる。
「いきなり連絡もなしにいなくなって、びっくりしたよ」
「すまない。筆がすごく乗ってしまってね。その勢いのまま、完成させたかったんだ」
「もしかして、翻訳?」
「そう。ついにやり遂げた。とんでもない達成感だ」
直は言いながら、バッグからきちんと装丁された本を取り出す。
「知り合いの印刷業者に個人的に頼んでね。書店で売っている単行本みたいだろう?」
直は、愛おしそうに本の表紙をなでる。
「すごい。これだけの分量を全部なんて。本当にすごいよ」
「ありがとう。さて、じゃあ、私が次に何を言いたいかわかるね?」
「読んで感想を、だろ? わかってる。時間はかかるかもしれないけど、ちゃんと読むよ」
「ありがとう。それと、ひとつだけお願いがあるんだ」
「なに?」
「この本は、きちんと頭から読んで、読了してほしいんだ。いつも言ってることと矛盾してしまうんだが」
「いいよ。直が訳した作品なんだ。僕もちゃんと読みたいから」
「すまないね、わがままを言って」
「全然だよ。何か食べる? お祝いにおごるよ」
「いいのかい?」
「もちろん」
「では、お言葉に甘えようかな」
ピザを二枚とコーラを注文し、僕らは乾杯をした。
「夏休みなのだけど」
「うん」
「海外に行こうと思ってるんだ」
「海外?」
「ああ。実際に、塔坂さんが住んでいる国に行って、その空気を感じてこようと思う」
「夏休み全部使って?」
「半分くらいかな。寂しいかい?」
「まあ、それなりに」
本当はものすごく寂しい。一緒にどこかへ行こうと誘えないかとか、夏休みの間に告白できないかとか、色々考えていたからだ。
「寂しくなったらいつでも連絡してくれていいよ」
「そっちもね」
僕らは笑いあう。
「本、直がいない間に、読み終えるよ」
「長いけど大丈夫かい?」
「大丈夫、だと思う」
「まあ、ゆっくり読んでくれ。読書で一番大切なのは体験だからね」
「うん。あ、それと、短編集読み終えたよ」
「どうだった?」
「難しかった。けど、映画になった短編。やっぱり、あれの設定は面白いなと思った」
全体の流れは、映画と変わらない。
七月上旬の雨の日、ビンに詰めた手紙を流す。ただ流すだけではだめで、条件がいくつかある。まず、ビンを二つ用意する。一方には白紙の便箋を入れて蓋をし、箱の中に保管する。そして、もう一方のビンには、書いた手紙を詰め、それを海へ流す。
海ならどこでもいいというわけではなく、そこが二人の思い出の海でなくてはならない。それらの条件をクリアすると、その手紙は、死んでしまった愛しい人へと届く。
そして、七月の下旬の雨の日に、箱にしまったビンを取り出すと、白紙だった便箋に、死者からの返信が印字されている。そこから三年間だけ、七月に限り、死者とやり取りができるのだという。
「塔坂樹の作品にしては、ロマンティックな設定だなと思った。とはいっても、手紙でのやりとりは、ラブレターというより哲学っぽかったけど。三年間のやり取りを、短編の中できれいにまとめてるのはすごいなと思った」
「うん。二人のやり取りは、とても濃い。映画と違って、二人のことは語られない。物語の始まりからすでに死に別れていて、私たちは、ただ二人が一年に一度交わす手紙を読み進めるだけ」
「映画だと、二人の関係性が追加されてるんだね」
「そう。脚本も担当した監督が、塔坂さんに許可をもらい、追加したらしい。三年間のやり取りを、過去と交えて語る」
「三時間っていうのも、そことのリンクなんだって読み終えてわかった」
「素晴らしい。とても良い読書経験だ」
「直が、本の読み方を教えてくれたから」
「何も教えちゃいないさ。我々には、読む、という力がもともと備わってる。君は、その力を自覚しただけだよ」
直は、まっすぐ僕を見る。
「君は、もっと誇っていい」
「大げさだよ」
あまりにもまっすぐな言葉と目は、僕の心をいつも震わす。直のほうこそ、誇っていいと思う。知的で、優雅で、優しい。そんな君を、僕は好きになった。
いつか、伝えたい。
けれど、いつかって、いつなんだろう。このまま、この関係が続くかどうかだってわからない。
覚悟を、決めるべきなのかもしれない。
「直」
「うん?」
「直が帰ってきたら、翻訳本の感想伝えるよ」
「無理しなくていいんだよ?」
「そうしたいんだ。だから、帰ってきたら、誰よりもまず、僕に会ってくれないかな」
「構わないよ。君からそんな提案してくるなんて、珍しいからね。どんな感想が聞けるのか、楽しみだよ」
ちゃんと伝える。そう決めた。間をおくのは少しばかり逃げな気もするけれど、これが、臆病な僕の精一杯だ。
それから、僕らはいつもように語らい、別れる。
そして、数日後、直は海外へと旅立っていった。
時々連絡を取り合いながら、僕は直の翻訳本を読み進めた。
内容を半分ほど読み進めたある日、僕は夕方のニュースで、海外で大きな災害が起こったことを知る。
そこは直がいる国で、直が滞在している地域が、一番被害が大きかった。
すぐに連絡をした。けれど、つながらなかった。きっと、状況が混乱していて、連絡がつかないんだろう。僕は自分にそう言い聞かせる。
そうして、少し時間が過ぎたころ続報が入り、現地の日本人被害者が明らかになる。
村上直。
その中に、その、見慣れた名前を見つけた時、僕の時間は止まってしまった。
直が死んだあと、僕は大学を休学し、ただ起きて寝てを繰り返す生活をしていた。
直の葬式に参列し、その死が現実なんだと見せつけられてもなお、僕は、もしかすると、これは夢なんじゃないかと思っている。
起きていると、色々な後悔が押し寄せてきた。
それを誤魔化そうと、また眠る。
そんな風に、ただ日々を過ごしていく中、とあるニュースを見つけた。
塔坂樹の最新作、七月発売。
そのニュースを見て、自分が一年近くもの間、何もせずに過ごしてきたことを自覚すると共に、直のことを、後悔とは違う形で考えることができた。
新作、読みたかったろうな。
そんな風に考え出すと、このままではいけないんじゃないかと思ってくる。
どうすればいい。いつもそれを示してくれた直は、もういない。
自分で考えなくてはいけないのはわかっている。けれど、答えが出ない。
散らかった部屋の真ん中で、僕は途方に暮れる。
そこで、あることに気が付く。
翻訳本、最後まで読み切ってなかったな。
僕は読みかけの翻訳本を、久しぶりに手にする。
そうして、少しずつ、読み始める。そのことに、どんな意味があるのかはわからないけど、読書することで、無自覚な何かを掴むことができるのだと、直は教えてくれた。
この本の先に、もしかしたら、答えがあるんじゃないか。
そんな希望を持って、僕は本と接した。
ただ過ぎ去るだけだった一年と違い、本を読み始めてからの日々は、濃厚で、長く感じられた。
ひと月くらい経過したように思えていたけれど、実際は一週間程度だった。
もう少しで読み終える。そのことに、僕は悲しみを覚える。
直との繋がりがなくなってしまうように感じるから、というのもあるけれど、内容に心惹かれているからという感情の方が強いかもしれない。
この本で描かれるのは、喪失と、それによる気付き。そして、そこから新しい自分を見つけ出すというものだった。自分の状況とリンクするようで、自然と熱中する。
直による翻訳だからなのか、この作品における塔坂樹の筆致がそうなのかはわからないが、そこに綴られる文章は、直の語り口とよく似ていた。
懐かしさを感じて、涙が流れる時もあったほどだ。
本の中の主人公と共に、僕もまた、喪失を埋めていったように思えた。
そうして、あの日、直と約束した通り、僕は本を頭から読み終えた。
物語の余韻に浸りつつ、残りのページをめくる。
そこには、「あとがきにかえて」という項目があった。
僕は、それを読み始め、言葉を失う。
この本を読み終えた君へ、私から。
という書き出し。これは、僕へのメッセージだった。
きちんと頭から読んでくれただろうか。君のことだから、約束すれば、その通りに読んでくれるだろうと思う。
まずは、最後まで読んでくれてありがとう。この物語が、君に良い体験をプレゼントできたのなら嬉しい。
実は、この場で君に伝えたいことがある。
私は、君を愛してるということ。
好き、だけだと、うまいことこの気持ちを伝えきれないと思った。だから、少し恥ずかしいのだけど、愛しているという表現をした。
君と語らう時間、その時間が、私にとってどれだけの幸福をくれているか、私の心を視覚化して見せられたらいいのにといつも思う。きっと、この世のどんな光よりも輝いていると思うから。
そうすれば、君にも私の気持ちが伝わるだろう。
すぐに言えばいい、そう思うかい? そうだね、私らしくないと思う。けれど、私はこわいんだ。この気持ちを伝えて、もし君に受け入れてもらえなかったら。そんなことを考えると、これほどまでに大きな感情なのに、それを飲み込んでしまう。
自分にこんな臆病な面があったのか、という気付きがあったという意味では、貴重な経験ではあったけどね。
そこで、提案がある。
いま、まさにこの瞬間、私に連絡をくれないだろうか。
そうして、君の返答を聞かせてほしい。
こんなやり方で、申し訳ない。臆病な私を許してほしい。
返事、待っているよ。
直も、僕と同じ気持ちを持ってくれていた。
嬉しさ、悲しさ、色々な感情が混ざりあって、僕はただ、ひたすらに泣き続けた。
伝えたい。今すぐにでも君に連絡して、僕も君を愛していると伝えたい。
けれど、それはもう届かない。
君は、いつもまっすぐで、迷いなんてなくて、凛々しくて。
けれど、そんな余裕たっぷりな君に、僕は騙されていた。
君だって悩む、君だってこわがる。
君だって、恋をする。
もっと早く気付けたら、という後悔はある。けれど、一年間腐っていた時のような、ふさぎ込んだ気持ちはなかった。
生きていこう。
そう思った。
ちゃんと生きて、あの世なんてものがあるのかわからないけど、もしそこで君にまた会えたら、その時にきちんと伝える。
僕も、君を愛していると。
あとがきを読んでから一年後。
僕は今、海に向かうタクシーの中にいる。
「オフシーズンにわざわざこんな辺鄙……なんていったら失礼かな。でも、本当に海だけでまわりになんもないでしょこの辺。地元民の自分がそう思うくらいなんだから、余所のひとなんか余計なんじゃないですか?」
タクシーの運転手は、よくしゃべる人だった。けれど、運転はとても丁寧で、正確で、揺れもない。そのおかげで、直と歩いた道を、ゆっくり横目にすることができる。
「大切な人との、思い出の場所なんです」
塔坂樹の短編にならい、思い出の海を作ろうと直に言われ、僕らは共に出かけたことがあった。
直はすでに、候補になる海を見つけていた。
「ここは、本当に海しかない。けれど、それがいいんだ。海しかないから、思い出が他のものにブレない。確実に、この海は私たちの思い出になる」
そう語っていた。確かに、その通りだ。僕のここでの思い出は、海に限られている。
「すいません。お客さんにとっては大切な場所だったんですね」
運転手は申し訳なさそうに言う。
「いえ、気にしないでください」
「余計なことばかりしゃべっちまう性格で。直そうと思って、簡潔にしゃべる方法みたいな本を買ったこともあるんですが、納得いかねぇなと思ってるうちに読み終わってしまって。どうしようもないですわ」
「読書は体験が大事なんです。納得いかないということを知れたということが、きっと、運転手さんがその本を読んだ意味なんですよ」
直への、〈返答〉の手紙を流す、思い出の海が見えてきた。
「読書は体験か。いい言葉ですね」
「ええ。僕も、そう思います」直
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