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「この間、言われました。『子供、なんでできないんだろうな』って。ため息をつかれました。もうあの人たちの計画は始まっているのかもしれません」
困りましたねと自虐的に笑ってみせた彼女に俺は首を振る。
「このままじゃ、駄目です。お互いに、絶対」
どうして俺たちが?
何もしていない俺たちが泣き寝入りするみたいに、受け容れなきゃいけないというのか?
声を発することもできずに、悔しい想いをしたまま別れを切り出されなきゃいけないのか?
「せめて、話し合いましょう。時期を見て四人で、です」
「でも、どうやって……、四人で会うなんて知ったら絶対に逃げられてしまいません?」
「考えましょう。さっきの二人の会話だと、もう少し時間がありそうです。時々、こうして会って作戦を立てましょうか? えっと……坂本さんの」
「チハルです……」
「改めまして、青木一馬と申します」
戦友のような気持ちで彼女に手を差し出したら、ためらうようにゆっくりと握り返される。
小さな手に力はこもっていない。
まるで何もかもあきらめてしまったような、脱力している手を強く握りしめる。
「俺たちには非はありません。俺も、チハルさんと同じ立場です。もう、一人で悩むのは止めて下さい。だって、俺の元を訪れたのは誰にも相談できないで、どうしようも無くなってしまったからでしょう?」
握った手、チラリと袖口から覗いた白い手首に違和感があった。
見えたのは、新しいもの、相当古いもの、ためらい傷の幾つもに胸が痛む。
俺に真実を告げたあと、この人はどこに行こうとしていたのだろうか。
そう思うと絶対にこの手を離してはいけない、そんな気がした。
そっと傷をなぞり、彼女の目を見たら大粒の涙がこぼれた。
「憎かったんです、由香さんのことが! こんなに素敵なご主人がいるくせに、どうしてうちの夫と? そう思ったら、青木さんのところに来てしまいました……。ごめんなさい、苦しみに巻き込んでしまって。何も知らないままならば、幸せだったはずなのに。私の身勝手で、青木さんの家庭も壊してしまった。ごめんなさい、ごめんなさい」
泣き崩れそうになるチハルさんを抱き留める。
壊れてしまわないように抱きしめていたら、俺もまた涙がこぼれた。
どうして、俺たちがこんな風に泣いているんだろうか。
『ちょっと残業のあと、後輩の慰め会に行ってくる。終電には間に合うように帰るから』
由香から入って来ていた今日のメッセージ。
今もきっとアイツらは二人でいるんだろう。
その行為の影で泣いている俺たちに気づくこともないまま。
「とっくに壊れていたことに気づけないままが幸せだというなら、俺は不幸せでいいです」
俺の言葉に顔をあげたチハルさんは、まだ泣き顔だったけれど小さく何度も頷いた。
――それが、坂本チハルさんとの出会いです。
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