坂本チハルという女性

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坂本チハルという女性

「突然すみません。私、坂本の妻です」  会社を出た瞬間、声をかけられた。  大きくお辞儀をし、顔をあげた彼女の第一印象は、儚げな美人。  春だというのに、冬のようないで立ち。  全身黒づくめコーデ。長い黒髪、黒色のコート、黒色のスカート。  カジュアルな服装なのに、まるで喪服のようだなんて感じるのは、伏し目がちな暗い表情のせいだろうか。  どこか翳りのある美しい女性だった。 「あの、坂本さん? すみません、私の知り合いに坂本さんという方はおらず、どなたかとお間違いでは」 「青木さんですよね? 青木由香さんのご主人の」    間違ってましたか? と言わんばかりに俺を見上げた黒い瞳。  助けて、と縋りつかれたような気がした。  か細い声を出す、口元のホクロが妙に艶めかしい。 「えっと……」  確かに俺の妻は青木由香だ。  だとしたら、この女性は由香の友達か、とは思ったけれど違うな。  さっき自分のことを『坂本の妻』と名乗ったのだ。  由香の知り合いの坂本さんの奥さん、ということだとは思うのだが。  物騒な世の中だ、すぐにはイエスと頷くこともできずにいた俺に、彼女は消え入りそうな小さな声で「すみません」とつぶやいた。  それから、今にも泣きだしそうに顔をゆがめて。 「先週の水曜日から木曜日、奥様は出張に行きませんでしたか? 大阪に」  確かにその通りだったので、驚きのあまり頷いてしまった。 「私の夫もです。夫は一人で出張に行ったと言ってましたが、奥様はどうでしたか?」 「ええ、うちもそうです……」    全てを聞くのが怖い気がする。  違っていてくれ、違っていてほしい。  まだ何も聞いていないうちから、心の奥に突然大きな石が落っこちてきたような痛みが胸をえぐる。  次にこの女性が言葉を発したら、今まで自分が信じていたものが崩れ去りそうな予感。  すっかりと手足の末端は冷え切り、代わりに心臓のあたりに血流が全部集まっているみたいにドクドクと音を立てていた。
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