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俊輔は薫の家を出ると自宅への道を急いだ。
思ったよりずっと長居してしまっていた。
それでも薫の家で勉強する約束をしたことが楽しみでならなかった。
特進コースの薫と勉強出来るなんて幸運以外の何物でもないと思えたのだ。
しかも話してみたらごくごく普通で話しやすささえ感じた。
俊輔はつい笑顔になってしまうのを堪えながら家路を急いだ。
薫は俊輔が帰るのを玄関で見送ると、リビングに戻りテレビの影に隠してあった小型カメラを取り出し自分のスマホで俊輔が映っているのを確認した。
音声もちゃんと入っている。
全て計画通りだった。
自分と俊輔と高田しかいない時間をずっと待っていた。
そのタイミングで財布を置いてくれば、高田は絶対俊輔に相談する。
そうすれば俊輔の性格から必ず届けにくる、と踏んでいた。
ソファーへ向きを変え、今しがたまで俊輔が座っていた場所を手で確認すると、まだほのかに俊輔の温もりが残っている。
薫は床に座ると、まだ微かに温かいソファーに頬をつけた。
その温かさがまるで俊輔そのものの様に思えた。
「───やっと気付いてくれた…」
そう言うと薫は幸せそうに瞳を閉じた。
部屋の中を沈黙が支配してシャープペンがノートを埋める音だけが響いている。
薫の部屋で2人で勉強をしている。
財布を届けてから一週間が経ち、俊輔はお互いの予定が合えば薫の家を訪れるようになっていた。
会話といえば俊輔が分からないところや、もっと簡単な考え方を、薫が教えるくらいだった。
俊輔は勉強に集中できるこの空間に安心していた。
中学に入った頃、自分の『水恐怖症』を調べるようになり、様々な恐怖症で悩んでいる人が相当いるのだと知った。
俊輔の場合シャワーは全く問題ないが、ある一定量の水があると怖くなったし、『大量の水』がある、と想像してしまうだけで怖くなることもあった。
それでも薬を使い、自分を上手く安心させることが出来れば風呂やプールも短時間に限り我慢できる。
それで何とか周りに『水恐怖症』だと知られずにやってこれた。
俊輔の水恐怖症を知るのは、家族と一部の教師、それと結衣くらいだ。
隠したいと思うのは『恥ずかしい』から…。
そして色々調べるうちに、朧気ながら医師になりたい、とも思うようになっていた。
その俊輔にとって薫との勉強の時間は、正に恵みの雨のようだった。
「少し休もう」
そう言って薫が身体を伸ばす。
時計を見て初めて3時間以上集中していたのだと気付いた。
俊輔もシャープペンを置いて首を回し肩のコリをほぐす。
「疲れたぁー」
俊輔が机に突っ伏し、心地よい疲れに目を閉じた。
「……成瀬、何かあった?」
薫が立ち上がりコーヒーメーカーのスイッチを入れると、そう口にしながら俊輔を振り返った。
「え?」
「なんか今日落ち着かない感じがしたから」
「………あぁ…」
薫の言葉に明日の結衣たちとの約束が思い出された。
ここに来てから気にしていないつもりだったが無意識に出ていたのかもしれない。
「………明日、友達とプールにいくから…。その事が気になってたのかも」
俊輔は苦笑いした。
「友達って女の子?──いいね。リア充って感じ」
薫が茶化すように笑うと
「オレ、ああいう人混みとかダメなんだよね」
背中を向けた。
「………砂糖とミルク…いらなかったよな?」
しばらくすると薫は入れ立てのコーヒーを俊輔の前に置いた。
コーヒーのいい香りが鼻孔をくすぐる。
「サンキュ」
俊輔がコーヒーを手にして
「人混み苦手なんだ?」
そう言ってからコーヒーを口にした。
薫は自分のコーヒーに視線を落とすと
「広場恐怖症って知ってる?俺…それなんだよね…。だから人混みとか行くと時々だけどパニック起こすの。だから結局そういう場所に行かなくなった」
そう言って俊輔に視線を向け困ったように笑った。
「こんなこと話すの成瀬がはじめてだよ」
俊輔は何も言わず薫を見つめ、薫は黙ったままコーヒーを見つめている。
「――そう…なんだ…」
俊輔が沈黙に気付き口を開いた。
黙っているのが気まずく感じた。
「笑っちゃうだろ?この歳になって人混みが怖いんだから…」
薫が自嘲気味に笑った。
「──そんなことないよ。俺だって…」
俊輔が何かに気付いた様に、途中で言葉を切った。
薫は先を急かすでも無く俊輔を見つめた。しかしその瞳にはその言葉には先があると解っているように見える。
俊輔は小さくため息をつくと
「――実は俺も………水が怖いんだ…」
コーヒーに視線を落として話し出した。
「子供の頃…風呂で溺れてから…たくさんの水があるって思うだけで怖くなる…。発作も何度も起こしたことあるし、その度に死んじゃうんじゃないかって怖くなる…。そのくせ人に頼まれると断れなくて………本当はプールなんて行きたくないのに………」
語尾が微かに強くなる――。
俊輔が本音を吐いているのが分かり薫の口角が僅かに上がった。
気にして見ていなければ分からない程僅かに………。
「そうなんだ…。成瀬は優しいからな……──オレなら絶対断る。まあ、そもそも誘われないけど」
薫が冗談ぽく言って笑うと、俊輔もつられて笑った。
「俺もこんな話したの薫くんが初めてだよ。なんか…少し気が楽になったかも」
そう言ってコーヒーを飲んだ。
「言おうと思ってたんだけど、薫でいいよ。『くん』はいらない。『薫くん』なんて小学生みたいじゃん」
薫も笑ってコーヒーを飲み干した。
「言われてみればそうかも…じゃあ、俺も俊輔でいいよ」
俊輔は初めて自分と同じ悩みを持った人が目の前にいるというだけで安心した。
このことを自分から誰かに話したのも初めてだったが、本当に少し気が楽になった気がしていた。
そして俊輔も同じ様にコーヒーを飲み干した。
しばらく他愛のない話をしていると、俊輔が大きな欠伸をした。
何故か頭がぼーっとして会話の返事が遅くなっていく。
「俊輔!…大丈夫か?」
薫の問いに
「……ごめん………何だか…すごい眠くなってきちゃって…」
そう言いながらも欠伸をして目をこする。
「………疲れてんだよ。今日もここに来る前バイトだったんだろ?」
「そう…」
俊輔の目が閉じては開き、またゆっくり閉じていく。
「……ごめん……マジで眠い…」
「少し寝れば?」
薫が立ち上がり
「俊輔、オレのベッドで少し寝な」
そう言ってるうちにも俊輔が厚みのあるラグに倒れそうになるのを薫が支えた。
「──ほらこっち……」
「……うん…」
薫は俊輔をどうにか立たせてベッドへ寝かせると
「おやすみ」
微笑み、もう返事すら返せないであろう俊輔に呟いた。
そして優しく俊輔の髪を撫でると、安心したように寝息を立て始めた。
しばらくその寝顔を見つめていた薫はクスっと笑うと立ち上がり自分の部屋を後にした。
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