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「───あ………………」
見開いた葵の目から俊輔は慌てて視線を逸らした。
この後、見なくても葵の表情がどう変わって行くか分かる。喧嘩をした時、いつもそうなように辛そうに、悲しそうに歪むのだ。
自分を心配しているだけなのに、きっといつも以上に傷つけた筈だ……。
「……ごめん…………でも……今は触って欲しくない……」
それでも俊輔は葵の顔を見る事が出来ないまま続けた。
「……ちょっと…朝から調子悪いみたいで……本当にごめん……」
そう言うとまだ残ったままの皿を残し、自室へと向かった。
葵がただ自分を心配してくれているのだと解っている。自分がした事が、どれだけ葵を傷付けているかも充分承知している。
けれど今葵に触れられた時の感覚が、一瞬で身体の中に湧き上がった感情が、怖くてその場にいられなくさせていた。
「……葵…………」
不安そうな結衣の声が聞こえないのか、俊輔を追うこともできず、葵は無言のまま立ち尽くした。
───どうして…………
部屋のドアを閉めるなり、俊輔はそのまま崩れるようにドアに背を預けたまましゃがみ込んだ。
葵に触られた瞬間、吐き気すらする様な嫌悪感に襲われていたのだ。
そしてその瞬間思わず手を払い除けていた。
───結衣が触った時は確かに何ともなかったのに………なんで………………
得体の知れない嫌悪感と、底知れない恐怖心が胸を埋め始め、俊輔は子供の頃の様に小さく蹲り目を固く閉じた。
「………………葵……」
何度目かの結衣の名前を呼ぶ声に、葵は我に返る様に顔を上げた。
「──俊は!?」
「え…………あ………………部屋…行ったみたいだけど……」
確かめる様に結衣に尋ねた事が余計、今目の前で起こった事が現実だと葵に突きつけた。
あんな風に怒鳴る俊輔を見るのも、あそこまでハッキリ手を払い退けられた事も初めてだった。
そしてその時の俊輔の表情も…………
明らかに自分を嫌悪していた。
「……葵……?」
結衣もどうしていいのか分からず、不安に瞳を濡らしている。
「……お前はここにいて…………俺……もう1回俊のとこ行ってみるから」
───もう…………逃げたらダメだ…………
葵は2階を睨むように見据えると、後を追うように俊輔の部屋へ向かった。
「俊…………」
さっき傷付けたばかりの聞き親しんだ声に俊輔は顔を上げた。
「…………入っていい?」
───葵………………
ドア1枚隔てたすぐ側に、葵がいるのが分かる。
しかしまだ身体の中を支配しようとする嫌悪感に、俊輔は短い沈黙の後口を開いた。
「……ごめん……。今は……」
「…………分かった。じゃあ…このままでいいから…何があったか教えて……中には入らないから」
ドアを通していても葵の優しさが伝わってくるようで胸が苦しくなった。
あんな風に拒絶してしまった自分を、それでも心配してくれているのだ。
「……分からないんだ……」
「発作起こしたのは今朝?」
「…………昨日……の…夜……」
「何があった?……一人だったの……?」
「薫がいてくれた……」
───そうだ──薫がいて…くれて………それで………………
───『俊は葵に捨てられたんだから』───
───え……!?………………
不意に薫の声が頭に響いた。
──なに…………今のは…………!?
「───俊?」
───『お前みたいな兄貴を好きでいられるか?』───
廊下で葵が呼んでいるのが聞こえる。しかしそれよりハッキリと、頭の中で薫が話し続けているのだ。
──薫…………そんな訳ない…………
───『本当は……葵としたいから?』───
──薫が……そんな事言うわけない……
───『もっと……気持ちよくしてあげるよ…』───
──これは……なんだ!?…………
込み上げてくる吐き気を堪えきれず俊輔は思わず片手で口を押さえた。
何度か呼びかけても返事すらしなくなった俊輔に、葵はドアノブに手を掛けた。
万が一また発作を起こしていたら……
そう思うと、何もせずにはいられなかったのだ。
しかし葵がドアを開けるよ早く、違う力によって開けられたドアから、俊輔が飛び出してくるなり階段を駆け下りた。
「───俊!?」
葵の呼び掛けにも応じず、その姿はトイレへ駆け込んで行く。
「俊ッ!」
それを追うように葵が駆け付けると、床に膝を付け便座を抱えるようにした俊輔が、先程食べた物を吐いている。何度も吐き続け、胃の中の物が全て無くなってもまだ止まらないのか、苦しそうにずっと嘔吐いている。
こんな俊輔の姿など初めて見た。
「………大…丈夫か……?」
背中を摩ろうと伸ばされた葵の手に、俊輔の背中が見てとれるほどビクッと震えた。
「…………ごめ…ん……今は…………」
背中を向けたまま苦しそうにそれだけ言うと、また苦しげに吐き出した。
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