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眠が浅くなっていたせいか、それとも空になっていた胃がそれに惹かれたからか、美味しそうな匂いに俊輔は重い瞼を開けた。
すると自室ではなく、その瞳にリビングが映し出された。
───俺……ソファーで寝てたんだっけ…………
起ききれないぼんやりとした頭で身体を起こすと、キッチンから出汁のいい匂いが漂ってきているのだと気付いた。立ち上がり、匂いを視線で辿るとキッチンに立つ葵が見える。
誘われるように近くまで行くと、自分より背の高いそれでいて線の細い背中を見つめた。
葵はイヤフォンで音楽を聞いているらしく俊輔が起きてきたことに気付いていない。
──俺が守りたくて……その癖本当はずっと俺を守ってきてくれた背中だ……。
俊輔の手がゆっくりとその背中へ伸ばされた。
──もし……もう少し……早く俺が自分の気持ちに気付いていたら…………少しは違ったんだろうか……
後数センチで触れる距離で、俊輔はその手を握りしめ
「……そんなこと……ある訳ない……」
そうポツリと呟いた。
何か聞こえた気がして振り向くと、近くまで来ていた俊輔に葵は慌ててイヤフォンを外した。
「ビビらせんなよ………起きたの?」
「うん」
苦笑いする葵に俊輔も笑顔を返した。
「……体調は?」
「全然平気…………またお前にも…迷惑掛けて、ごめんな」
笑ってはいるが落ち込んだ声に、葵は視線を鍋に戻した。
「俺は別に何もしてないから…。結衣にお礼言えよ」
「ん……。分かってる」
「……夕飯……うどん作ってみたんだけど。………お前…吐いてたから、消化に良いもんのがいいかと思って」
「……そっか……ありがとう」
どこかぎこちない空気を拭えないまま、それでもお互い離れたくないと思っていることだけは伝わる。
「けどさ……考えたら結衣が作ってくれたのも麺だったから……違うものにすれば良かったな……」
「そんなこと無いよ。俺、そんな食べられなかったし……結衣にそれも謝んなくちゃ」
「はは……それな」
触れたいのに、触れられない
触れられる程側にいるのに、触れてはいけない。
お互い胸に秘めた想いを隠した会話を繋げながら、しかしそれは、決して伝わることは無い。
「もう出来るから器出してよ」
「あ……うん」
食器棚から取り出した2人分の器を差し出した俊輔の手から、受け取ろうと伸ばされた掛けた葵の手が受け取ること無くすぐに戻された。
「そこ置いといて」
触れようとして拒絶された事が葵にも深く傷を負わせていた。
「美味くできたな」
葵が自分で作った肉うどんに満足そうに頷くと、俊輔はそれに笑いながら
「うん。スゲー美味そう」
口に運んだ。
「───美味い……」
意外そうにそう言った俊輔に、葵はニィッと笑った。
「当たり前だろ?俺が作ったんだから」
ふざけた言葉に蟠りを残したまま、それでも2人は笑い合った。
「お前……明日バイト?」
「昼間だけね、夏休み中はもうこれで最後かな……」
「………あいつも………一緒なの?……」
「あいつって………薫のこと…?」
葵は俊輔から、まだ湯気を上げているうどんに視線を移した。
どう言えばいいか分からない。何か確証がある訳でもない。
ただ自分が嫉妬しているだけかもしれないという思いが拭いきれないのだ。
「……あんまり……そいつと一緒にいない方が…いいんじゃないか……?」
葵の言葉に、昼間頭の中に聞こえた薫の声が俊輔の中に不意に蘇った。
幾つもの不快な言葉。
「………お前も、結衣も…薫に過敏になってない?」
俊輔は自分の気持ちも誤魔化す様に笑った。
その言葉を受け入れてしまったら、この頭に響く馬鹿げた声を“真実”にしてしまうようで怖かったのだ。
「……じゃあ…昨日は何で発作を起こしたんだよ……?」
葵が瞳が真っ直ぐに俊輔を見つめた。
「……それは…………」
まさか葵からのメッセージがきっかけで『あの人』にまた嫉妬してなんて言える筈もない。
「………けど、……薫は関係ない」
「答えになってねぇじゃん……何でそいつをそんなに庇うんだよ」
「庇ってる訳じゃない!───本当のことだから……」
お互いに抱える想いが、望んでいる事とは真逆に進ませて行く。
「──だったら!何で発作起こしたかちゃんと言えよ!あいつのせいじゃないなら言えんだろ!」
「それは……言えないけど……。でも!薫は関係ない!」
「だから!何で言えないんだよ!それがおかしいって言ってんの!!」
「言えないのと薫は関係ない……」
「なんだよそれ……言えないってのは何か後ろめたいことがあるからだろ!?──そうじゃないならちゃんと言えよ!」
「───葵には関係ないからだよ!!」
言うつもりも無かった言葉に、葵の顔が歪んだ。
後ろめたい自分を見透かされた気がして、思わず口を衝いて出ていた。
「───あ…………違…………」
「──あーそうかよッ……俺には関係無いもんな………ならもう……好きにしろよ」
吐き捨てる様にそう言うと、俊輔を残し葵は立ち上がった。
怒りのままに閉められたドアが、階段を駆け上がる足音が、俊輔の胸を締め付ける。
葵が心配してくれているのを解っていながら傷付けてしまった。
後ろめたいことがあるからだと言われて、つい熱くなった。
見抜かれてる様でいたたまれなかったのだ。
未だに嫉妬してる自分を……。
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