喧嘩

6/7
前へ
/84ページ
次へ
───面倒くさ………………。 一人になった部屋で、藤井はソファーに身体を預けると深いため息を吐いた。 莉央の手前医者に行くと言ったが、行ったところで大した治療はされないことなど、過去の経験から分かっている。 恐らく肋骨にヒビが入ったか……精々がその程度のコトだろう。 昨夜は結局一睡もしていないのに気が昂っているせいか眠くもならない。 「…………葵…………」 それでも目を閉じると意図せず愛しい名前が口から漏れた。 こんな情けない姿を見せたくないと思いながらも、本音は会いたくて仕方がなかった。 ただそばにいて欲しい。 独りがこんなにも心細い物だと感じたのは、一体どれくらいぶりだろうか。 「……情けねぇ…」 言葉と共に吐いたため息に、脇腹にチクリと痛みが走った。 すると独りきりの静かな空気を小、さな金属音が微かに揺らした。 ───ホントだ……莉央さんの言った通り、カギ開いてる…… 別れ際、莉央に教えられた通りチャイムを鳴らさずに中に入ると、葵はリビングへと通じるドアを開けた。 「───ちゃんと行くから帰れって…………」 するといつもよりずっとゆっくりと、どこか身体の痛みを逃がすように立ち上がった藤井の姿が瞳に映った。 喧嘩をしたというのも、怪我をしているのも間違いではなかった。 「────葵………………」 リビングの入口で、まだ引ききらない汗を額から流す葵に、藤井の動きが止まった。 「……なんで……葵がここに…………」 「───なんでじゃないですよ!」 しかし藤井の表情に不似合いな、葵の怒鳴り声が部屋中に響き 「酔っ払いと喧嘩したって本当なんですか!?怪我は!?───入院とかッ…………」 走り寄った葵の心配に揺れる瞳が、きっと誰かから聞きつけて急いで来たのだと容易に想像させた。 「───ごめん…………怪我は大した事ない」 「大した事ないって……こんな痣になってるのに…………」 顔を歪ませ優しく撫でる指を、藤井は無意識に握っていた。 願望が見せた幻ではないのかと思えたのだ。 しかし柔らかい指が、伝わる体温が、現実だと教える。 汗で湿ったTシャツと、髪から伝う雫が胸を締め付け、そのくせ葵が傍にいる、そう思うだけで痛みすら和らいでいくように思えた。 「本当にごめん……」 「そんな……謝る必要ないですけど…………いや……やっぱあるかな……」 顔の痣を見つめながら、それでも少しホッとした表情が今度は柔く睨みつけた。 「最初聞いた時……どうしようかと思いましたもん……藤井さんはなんも言ってくれなかったし…………」 不貞腐れ口にすると 「とにかく……医者行きましょう?まだ行ってないんですよね?」 今度は葵が藤井の手を握った。 「……見た目ほど大した怪我じゃないから……」 葵が握り返した温かい指を唇へ運ぶと藤井はそっと口付けた。 まさか葵が自分を心配して駆けつけてくれるなどと思っていなかった。この時間なら家に“兄”もいただろう。それを、今だけだったとしても自分の元へ来ることを葵が選んだのだ。 「葵も来てくれたし……こうしてる方が余程治りが早いよ」 「そんなこと言って………ダメですよ、医者行かなきゃ!莉央さんとも約束したし」 「──莉央と会ったの?」 藤井の反応に慌てて視線をそらした葵を見つめた。 「……あ……下で……」 「そっか……ごめん…………でもあいつは昔から大袈裟なんだよ……だから気にしなくていい……」 「でも……!」 「本当に大丈夫だから……」 藤井は少し困ったように笑うと葵を抱き寄せた。 本当なら葵に莉央を会わせたくなかった。会えば葵が自分を責めるだろうと思ったからだ。 「でも……」 腕の中に閉じ込めた葵が小さくため息を吐いたのが分かったが、藤井は背中に回した手を離す気になれなかった。 自分のせいでまた葵にしなくていい思いをさせてしまった。 兄の代わりに傍にいるだけの自分がだ。 藤井の不安が、抱きしめられた腕から流れ込むように伝わり、葵は小さく息を吐いた。 莉央と自分を会わせてしまったことを気にしていると解る。 ───俊の代わりに縋ったのは俺なのに……。 しかしそれでも今日ばかりは流される訳にはいかない。 莉央が言った通り、藤井が医者に行く気が無いのも解った。 葵は腕の中からチラッと藤井の顔に視線を向けると、背中に回した手に力を入れた。 「────イッッ…………!!!」 「───え!?」 聞いたことの無い程の悲痛な叫び声と共に、藤井が脇腹を抑えて床にしゃがみ込んだ。 「──ふっ…藤井さん!?」 「…………大丈夫……だから…………」 焦って顔を覗き込む葵に、藤井は無理に笑顔を向けたが、目には薄ら涙を浮かばせている。 「すみません!俺…………」 莉央から『もし直斗が医者に行きたがらなかったら“ギュッ”って……抱きしめてあげて』と言われていたのだ。 「……やっぱり……ちゃんと、医者、行きましょう?」 申し訳なさそうに言った葵に、藤井は苦笑いを浮かべた。
/84ページ

最初のコメントを投稿しよう!

75人が本棚に入れています
本棚に追加