化け物

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化け物

 その夜はあまりにも静かで、運命をかき乱すにはうってつけの夜だった。ひとしきり抱き合ったあと、延長線上に待つ放心に身を任せるようにして眠りに落ちた彼。その寝息を、穏やかとはいえない気持ちで聞いている。 ――私、きっと騙されてるよね?  私という女は、彼とは不釣り合いだ。わざわざ周りから指摘されなくても、私自身が一番それを自覚している。非の打ち所のない性格の彼。明るくて楽しくて、それでいて思慮深いところもある。某有名大学を出たあと、誰もが知る上場企業に就職。スピード出世を果たした彼は、社内からの評価も高く、社会的な信用も厚い。友人も多く、年上からは可愛がられ、年下からは慕われていた。実家も裕福で、育ちがよく品行方正。男からも女からも好かれるキャラクター。人間であることを疑ってしまうほどに完璧な彼だった。  そんな完璧な彼からの告白。文字通り奇跡だと思った。でも、永遠に続く奇跡を願ったのも束の間、襲ってきたのは終わりのない劣等感だった。これといった取り柄のない私みたいな女が、彼と付き合えるなんておかしい。何かのドッキリか? 疑い続ける日々がはじまった。潤んだ目で「好きだよ」と甘美な言葉をくれるときも、ほんとだろうかと疑ってしまい、ことあるごとに私は彼の愛を、わざとらしく確かめ続けた。  完全に自信を失った私は、彼との恋愛を疑うばかりでなく、その疑いを彼そのものへと向けるようになっていった。束縛しておかないと不安で、いてもたってもいられない。常に彼を監視する日々。彼が私のそばにいないときは、不安を埋めてもらうために、頻繁に連絡するよう懇願した。だって、首ひもがほどけたら彼は、どこかへ消え去ってしまう。だから、窒息死するほどきつく、彼を縛っておくしか術はなかった。彼がどれだけ億劫に感じようが気にしない。だって、そうしなければ、私が生きていけないと思ったからだ。  そんな完璧な彼が唯一、人間味を見せる瞬間がある。それは、浮気の疑いを私が言葉にするときだ。「どうせ他に女、いるんでしょ?」と私が詰問するとき、彼は態度を豹変させた。それまでの澄んだ瞳は濁り、呆れた様子で家を出ていくときもあれば、激昂して殴りつけてくるときもあった。やましいことがないなら、「そんなわけないじゃん」と、笑い飛ばしてくれればいいのに。それなのに彼は取り乱し、醜態を晒す。でも、そんな彼のことを、私は嫌いじゃなかった。その瞬間だけは、彼も私と同じ人間なんだと思えたから。  いつまで精神がもつかもわからない綱渡りの恋愛。不安定な均衡をかき乱そうと思ったのは、彼の浮気が確定したからだった。友人からのタレコミ。不定期で途切れる彼からの連絡。時折、彼にまとわりついてくる下品な香水のにおい。生々しい背中の掻き傷。そして、こっそり覗いた彼のパソコンに隠されていた、裸の女に添い寝する写真。それを見つけてしまった瞬間、私の感情は、怒るでも狂うでもなく、不思議と凪のように落ち着いた。ようやく本来の自分に戻れた気がしたからだ。 「ねぇ」  彼の寝息を邪魔するように、私は彼の身体を揺すった。一瞬だけやんで、再びはじまる寝息。その呑気さを許すまいと、私はいっそう激しく揺さぶる。彼がうっすらとその目を開けたのを、私は見逃さなかった。 「他に女、いるんでしょ? 誰? あの裸の女――」  運命を捻じ曲げてやった。核心を突いてやった。ほら、焦ってみろ。ほら、殴ってみろ。私をめちゃくちゃにしてみろ。  狂気じみた期待とは裏腹に、私は下半身に彼の温度を感じた。彼の足が、私にまとわりついてきたのだ。ヌルヌルと這うように。それも何本もの足が。  悲鳴をあげた私は、裸のままベッドから飛び出した。あまりの気色の悪さに、彼を覆っているシーツを引き剥がすと、そこには愛おしい彼の姿はなく、いくつもの下肢を生やした醜い化け物が横たわっていた。 ――この化け物、どれだけ股があるんだ? 股? 何股?  やっぱり私は騙されていた。こいつは人間なんかじゃなかった。多くの女を弄ぶ、醜悪な怪物だったんだ。  化け物はベッドからヌルリと起き上がると、その下肢を巧みに操り、寝室から出て行った。逃すまいと私も寝室から飛び出し、キッチンに向かった。そして、取り出した包丁を握りしめ、「女をなめるな! これは世直しだ」と叫ぶと、化け物の足に切りかかっていた。  せめて一本でも。せめて一本だけでも、賎劣なその足を切り落としてやる。憎悪で食い込む刃物の耐え難い痛みに、化け物はうめき声をあげる。それを聞く私は、目ん玉がこぼれ落ちるほど大きく目を見開き、高々と笑い声をあげる。のこぎりで木を切り落とすようにして、ヤツの足を一本、切断してやった。ざまあみろ。  化け物は身体を引きずりながら、おずおずと玄関から出て行った。廊下、包丁、私の手。薄汚い血で染まっているのを、月明かりが照らしてみせた。  やった。やってやった。私を騙すようなワルモノを成敗してやった。  誇らしげな気持ちに浸っていると、ふと気づく。何股もかけるような最低な男に生える足を一本切り落としたとて、その一本はこの私じゃないか。そうやって男は、自らの手すら汚さずに、女を切り離していくんじゃないか。騙された側が心を粉々にしながら関係を清算したところで、男は引き続き、のうのうと生きていく。私がやったことは、自らで命を断ち、自分の死体を自分で片付けるような、滑稽な一人芝居だったんだ。  惨劇のあとの青白い部屋。一気に押し寄せる寂しさ。孤独を埋めて欲しくって、私はひとしきり泣いたあと、やっぱり彼を感じたくて、何度も彼と身体を重ねたベッドを見つめながら、彼の血で染まった指を、ぺろりと舐めた。
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