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パン屋さん
「シャルロッテ、僕の話を聞いてほしい」
私の家の前まで付いてきたオリバーが私の前に回り込んできた。
実は家につくまでの間、オリバーは何度も私に話しかけてきたのだが、ずっと私が無視し続けていたので、業を煮やし私の目の前に立ちふさがってきたのだろう。
「あなたと話すことはありません。あなたには大切な婚約者がいるじゃないですか。もう私を一人にしてください」
一人に……。
自分で言った言葉に、特別な意味を感じた。そう、私はずっと一人で生きてきたのだ。私が幼い頃、父と母は離婚している。なので、私は父の顔を全く知らないのだ。そして母は、私が小学生の頃に病気で亡くなってしまった。それから私は、親戚の家に預けられていたが、魔法学校に入ってからは、奨学金を受けながら一人暮らしを始めた。
別に、一人が寂しいだなんて思わない。これまでもそうだったし、これからも私は一人で生きていくつもりだ。
「シャルロッテ、母たちの非礼は詫びる。そして僕の話を聞いてほしいんだ。僕は決していい加減な気持ちで君に交際を申し込んだのではない」
「婚約者がいるのに、私に交際を申し込むなんて、私にも婚約者にも失礼な話でしょ」
「パトリシアとの婚約は親が勝手に決めたことなんだ。僕の本意ではない。僕が本当に好きなのはパトリシアではなく、シャルロッテ、君なんだ」
「まだ、数回しか会っていない私を好きになったというわけ?」
「確かに数回しか会っていない。だから、真剣にお付き合いをさせてほしいんだ。付き合って僕のことをもっと知ってほしいと思っている」
「そんなこと、あなたのお母様が許してくれないじゃない。私とこれ以上関わりを持てば勘当だって言っていたわよ」
「僕は、シャルロッテと付き合えるなら、勘当されても別にいいと思っている」
勘当されてもいい?
本気でそんなことを言っているのだろうか?
「あなたがもし勘当されたら、もう貴族ではなくなってしまうのよ。貴族のあなたが貴族でなくなったら、どうやって生きていくおつもりなのですか?」
「君と一緒にいられるなら、貴族でなくたっていい。もちろん働くつもりだ」
「よくそんなことが言えるわ。今まで特権階級で悠々自適に暮らしていたあなたが働くですって、そんなことできるわけないでしょ」
「できるかできないかは、やってみないと分からないよ」
「無理よ。貴族のあなたが、平民に頭を下げて働くなんて、無理に決まっているわ」
「シャルロッテ、もし僕が働けないというのなら、君への愛はその程度だったということだ。でも試してほしい、僕がどれくらい君のことが好きなのかを、近くで見ていてくれないか」
「見ると言っても、働くあてなどあるの?」
「うん、実は一つ考えていることがある」
オリバーはそう言って私と目を合わせた。整った目で見つめられると正直自分の目のやり場に困る。
「パン屋を始めようと思っている」
「パン屋? あなた、パンを作ることができるの?」
「いや、作れない」
「作れないのにパン屋をするつもり?」
「作り方は、ある人に教わる」
「ある人?」
「そう」
オリバーはじっと私を見つめ続けている。
「シャルロッテ、君だよ。君にパン作りを教えてもらう」
「私に?」
「そうさ。家でパンをごちそうになった時に思ったんだ。このパンなら間違いなく商品になると。君はパン作りの天才だと思ったよ。だから君に教わったパンを作って売りたいんだ」
「そんな、夢みたいなこと、無理よ」
「無理かどうかはやってみないとわからない」
私は商売などやったことがないからよく分からないが、そんなに甘いものではないことぐらいはなんとなく想像がつく。素人のオリバーがいきなりパン屋を始めて成功するなんて思えない。けれど、正直私はパンを作ることが大好きだった。オリバーの言葉を聞き、彼と一緒になってパンを作っている自分の姿を想像してしまった。
「どうだい、僕にパン作りを教えてくれないかい?」
どこまで本気なんだか、オリバーは真剣な顔つきで私にお願いしてくる。
私の野生の勘が働いた。
どうせすぐに音を上げるのだろうけど、少しぐらいオリバーの言葉を信用してみてもいいのかな。
そんなふうに思えてきた。
「わかったわ。あなたがそこまでいうのなら、パンの作り方を教えてあげる。そして私も就職が決まっていないので、一緒にパン屋を手伝わせてもらうわ」
「ほんとかい?」
「ええ。でもあなた、本当に貴族の地位を捨てて、パン屋をする覚悟があるの? 無理をしなくてもいいのよ。始めてしまったら、もう後戻りはできないんだから。覚悟がないんだったら、最初からあきらめてほしい」
「いや、やるよ。僕は家を出て、君と一緒にパン屋を始める。そして、絶対に君を幸せにしてみせる」
幸せにすると言ってくれたオリバーの言葉はうれしかったが、あまり喜びすぎてもいけないと自分を戒めた。
どうせ、最初だけで、少し困難なことが起こると、すぐに手のひらを返して元の貴族の世界に戻っていってしまうのだから。あまり期待しすぎると、裏切られた時、つらい思いをするのは自分なのだから。
「さっそく明日から、パン屋を始める準備を開始するよ」
オリバーはそれだけのことを言い残すと、私の家の前から立ち去った。とりあえず今日は家に帰り、明日からは正式に家を出てこちらにやってくると言うのだ。
どこまで信用していいのやら、そう思いながらも私のことを好きだと言ってくれているオリバーに対して悪い気は起こらなかった。ウィンリー公爵家ではあれだけ嫌な思いをしたのだが、オリバーの言葉でその嫌な思いも霧が晴れるように薄らいでいくのが分かった。
※ ※ ※
一日が過ぎ、オリバーの言葉が固い決心の末から出てきたものであることを思い知らされた。
彼は翌日から私の家に住み込みはじめたのだ。住み込むと言っても、部屋は私と一緒ではなく、隣の小さな物置のような部屋で寝起きを始めた。私の家に来るために、オリバーはパトリシアとの婚約を解消し、家とも縁を切ってきたらしい。
「無理をせずにできることから始めようと思う」
オリバーはそんな堅実なことを言いながら、来て早々にパンを売り始めた。売ると言ってももちろん店などはない。自宅で焼いたパンを家の前に並べて、つまり青空の下で商売を始めたのだった。
始めた当初はほとんど買ってくれる人などいなかったが、少しずつお客が増えていくと、私たちが作るパンの味は町の評判となりだした。
そして何より意外だったのは、オリバーの働き様だった。
一日も嫌な顔をすることなく、朝五時には起きてパンを焼き始めるのだ。一日二日なら辛い仕事も耐えられるだろうが、オリバーは嫌な顔一つせずに毎日継続して黙々とパンを焼き続けていたのである。しかも、焼き上がったパンを売る時は、町の人相手に笑顔を絶やさず、買ってくれたお客様にはしっかりと頭をさげて「ありがとうございました」と言うのだった。当たり前といえば当たり前のことだが、公爵家に生まれた大貴族の嫡男が、正直こんなにも真面目できっちりとした仕事ができるなんて想像もしていなかった。
「ねえ、毎日慣れない仕事を続けて、辛くないの?」
そう私が聞いた時、オリバーはこう答えたのだった。
「辛いだなんて思ったことないよ。シャルロッテと一緒なら、こんなに楽しい仕事はないと思っている」
そんな毎日を続けていると、私のオリバーを見る目が自分でもどんどんと変わっていくのが分かった。はじめは単に顔の整った優しそうな男性くらいにしか思っていなかったが、今は仕事熱心で真面目な彼の性格、しかも他人の悪口を言わない真っ直ぐな人間性に私の心は奪われていってしまったのだ。
一日のパンを売り切ったある夜、隣の部屋にいるオリバーが私の部屋のドアをノックした。
「入ってもいいかな」
私は正直ドキッとした。今まで、彼が夜に部屋に来ることなど一度もなかったからだ。
「どうぞ」
平静を装って私は返事をした。
オリバーがドアを開け、部屋の中へと入ってきた。
「実はうれしい報告があるんだ」
「うれしい報告?」
「うん」
そう言うとオリバーはいつもの明るい笑顔を私に向けてきた。
「僕たちの目標だったことが実現しそうなんだ」
目標だったこと。そう言われてすぐに思いつくことがあった。
「もしかして……」
「そうなんだ。ついに二人の店が持てそうなんだ」
今まで私たちは家の前に商品棚を置き、青空の下でほそぼそとパンを売ることしかできなかった。でもそれだけでは売上もしれている。毎日二人が暮らしていくには十分な稼ぎも得られない。なので私は、オリバーにこう提案したのだ。「まずは二人の店を持つことを目標にしましょう」と。その時がついに来たというのだろうか。私は彼の言葉に期待した。
「僕たちの働きぶりを見ていた人が、空きの店舗を格安で貸してくれるんだ」
「ほんと!」
でも、そんな話に安心して乗っていいのだろうか?
「店を貸してくれる人は、ちゃんとした人なの? 信用できる人?」
「大丈夫だよ。そこもちゃんと調べてある。信用のできる人だよ」
オリバーは夢ばかり追ってしまう私と違って、現実的なところがある。人を見る目もしっかりとしており、こういった大きなことにも抜かりなく安全にことを進めてくれる。そんなオリバーに私は安心して頼ることができた。
「うれしい!」
私は思わずオリバーに駆け寄り、その身体に手を回し抱きついてしまった。抱きついた後、あっと思った。オリバーも私の身体に腕を回してきたからだ。
「シャルロッテ、君に伝えたいことがあるんだ」
オリバーはささやくように話しかけてきた。
「店が持てて生活に目処がついたときに言おうと思っていたんだ」
「なに?」
「僕と結婚してほしい」
「えっ」
「どんなことがあっても君を幸せにする。君が歳をとった時、良い人生だったと笑って最後を迎えられるようにする。そのために僕は自分の知恵と勇気をすべて注ぎ込む。だから、僕と結婚してほしい」
「そういってくれるのはうれしい。けど、あなたは貴族で、この暮らしをずっと続けていくわけにはいかない人だと思うの」
「僕は、とっくに貴族の地位など捨てているよ」
「……でも」
「シャルロッテは、……僕と結婚したくないの?」
「違う。うれしいの。オリバーの言葉は本当にうれしいの」
私は頭が真っ白になりながらも何と返事をしていいのか必死で考えた。すると、オリバーの仕事をしている姿が頭に浮かんできた。朝早く起き、地味な作業の繰り返しであるパン作りを黙々と行っている彼の姿を。一日二日なら誰だってできる。でも彼は、何も文句を言わず、むしろ楽しそうに繰り返し繰り返し、決められた地味な仕事をこなしている。
そんな彼の姿に、私の心はすっかりと持っていかれていた。この人と本当の意味で一緒に暮らすことができたなら、どんなに幸せなことだろうと感じていた。
『シャルロッテ、正直になりなさい』
野生の勘だった。
私は抱きしめられ、彼の胸に顔を埋めながらはっきりと答えた。
「ありがとう、オリバー。私、あなたと結婚したい。私、あなたのことが大好きだから」
私の身体に回された彼の腕にぎゅっと力が入った。
「あんまりきつくすると痛いよ」
私は半分照れ隠しにそう伝えた。
その言葉を聞いたオリバーは、すぐに腕の力を弱めた。
優しい人。そう思ったらなんだか自然に私の顔から笑みがこぼれはじめ、今この時の幸せな気持ちを彼に伝えたくて胸に埋めていた顔を彼に向けた。
すると、真面目な顔をしたオリバーの視線が私の目に突き刺さってきた。私はその真剣な眼差しにある意味を感じ取り、じっと動かずにいるのが精一杯だった。
彼の顔が私に近づいてくる。とっさに私は目を閉じた。
オリバーの口が、私の唇にそっと触れたのがわかった。
私はオリバーの身体を回していた自分の手にギュッと力を入れ、彼を引き寄せた。この瞬間、私とオリバーがぴったりと一緒になったのがわかった。
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