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結婚生活
オリバーからのプロポーズを受けた三日後、私たちは王国事務局へ婚姻届を提出した。事務局の書類にはオリバーの爵位がそのまま記載されており、私はあくまで書類上のことではあるが、公爵家長男の嫁という立場になった。
ただ、貴族の世界について全く無知な私には、爵位など必要ないし、正直そんなものに関わると二人の生活が壊れてしまうのではと不安になってしまった。
私の心を感じ取ったのか、オリバーは私の肩にそっと手を回してこう言った。
「シャルロッテ、何も心配することはないよ。僕はもう公爵家の人間ではないのだから。君を必ず幸せにすると誓ったんだ。僕があの家に戻ることは絶対にないから」
「ええ、ただこうして書類を見せられると、あなたが元の貴族の世界に戻ってしまって、私はまた一人っきりになってしまうんじゃないかと不安になったの」
「僕は君を一人っきりにはしない。ずっと一緒にいるよ。君が歳をとって、寿命を全うする時、良い人生だったなと思い返せるように、僕はすべての自分の知恵と力を注ぎ込んでいくよ。絶対に君を幸せにすると誓ったんだ。僕を信じてほしい」
「うん」
オリバーの言葉で私の不安は日光に当たる氷のようにじんわりと溶かされていく。私は知っている。母は病気で亡くなったのだ。人間、誰もがいつ亡くなるかわからない。なので、オリバーがずっと一緒にいると誓ってくれても、どちらかが先に病気で亡くなったとしたら、そこで二人は一緒にいられない時がくるだろう。また、歳をとって、二人が同時にあの世に行けるとも限らない。どちらかが一人残ることになるはずだ。
けれど、そんな不安もオリバーの態度がすべて消し去ってくれる。
彼が、ずっと一緒にいると言ってくれたその言葉は偽りのない気持ちの現れだし、もし仮に私たちの一方が病気などでお別れすることになっても、心のなかではずっと一緒に生き続けていけるのだから。
「でもシャルロッテ、僕には一つだけ後悔していることがあるんだ」
そうオリバーは話し始めた。
「後悔って何?」
「本当は結婚式を挙げたかったんだけど……」
「そんなこと、いいのよ。パン屋が成功して、お金が溜まったら、二人だけで式を挙げましょう。そう約束したじゃない」
「そうだね」
「さあ、店に戻って、夕方のお客様に備えましょう。もう路上で売るのは今朝までで、これからは店での販売になるのよ」
「ああ、ついに念願の店を持つことができたよ。籍を入れた日に、出店できたんだ。今日のこの日は絶対に忘れることができない記念日になったね」
「そんなこと言って、男の人は記念日をすぐに忘れるって聞いたけど、あなたも何年かしたらこんな大切な日を忘れているんじゃないの?」
「それはないよ。忘れるわけないじゃないか」
「どうだかね」
私はわざと不信そうな目でオリバーを見つめた。そんな私の顔を見て、オリバーがおどけてドギマギとした顔をする。
二人の間に幸せな時間が流れていた。
正式な結婚手続きを終えた私たちは、太陽の光が降りそそぎ、穏やかな風がゆっくりと流れ動く中、新しく開くことになったパン屋の店舗へと向かった。新しい店は、二人が住んでいた家から歩いてすぐのところで、大通りにも面しており人の往来も多い場所だった。
家主から預かった鍵で入り口のドアを開くと、木目のきれいなカウンターが出迎える。
太陽の光が店内まで入り込み、清潔そうな商品棚を明るく照らした。
「お客さん、たくさん来てくれるといいわね?」
私は仕込んでいるパンの山を見ながらそうつぶやいた。
「うん、こればっかりは僕たちが決めることではないけど、できることをしっかりとやっていこう」
「そうね。あとは天に任せるしかないわね」
そんな会話をしている内に出店の時間が刻々と迫ってきた。
本当にお客さん来てくれるのかな。
不安が頭をよぎるが、そんな思いを振り払うかのように私は身体を動かし、焼き上がったパンを商品棚に並べていく。オリバーも今までにはない大きな窯を使い、次々とパンを焼いていく。
すると、目を疑うようなことが起こった。なんとオープン三十分前から、店の外に人が集まり始めたのだ。普段から買ってくれていた顔なじみのお客様たちの姿がある。けれど、それだけではなかった。見たこともない人たちも大勢集まり、その人たちが列を作り、出店の時間を待ち始めたのだった。
「ねえ、すごいことになっているわ」
私は驚いて、奥でパンを焼いているオリバーに声をかけた。パン作りの手を止め、オリバーが作業場から顔をのぞかせた。
「ありがたいことだ。開店時間を少しでも早めよう」
私たちは予定のオープン時間を早めるため、大急ぎで支度をはじめた。ガラスの向こうには、たくさんのお客様が待ってくれている。
「さあ、オープンしよう!」
オリバーの合図とともに、私は店のドアを開けた。
「いらっしゃいませ!」
私は、道路に並ぶ人たちに届くように大声を出す必要があった。
「出店おめでとう!」
そう言って一番に店に入ってきたお客様は、以前からのなじみ客だ。その後ろからも次々とお客様が入ってくるので、数組入っていただいた後は待っていただかなくてはならないほどだ。
私とオリバーは何度も入ってくるお客様に笑顔で挨拶した。その笑顔は作られたものではなく、出店日にお客様が来てくれた嬉しさから自然とにじみ出るものだった。
お客様は皆お祝いの言葉を述べ、店内のパンを次々と買ってくれた。仕込んだときは、少し多すぎたかなと思ったパンの山が、みるみる無くなっていく。在庫が無くなったのはちょうど、並んでくれている最後のお客様がパンを買い終えてくれた時だった。
「よかった、なんとか足りたわ」
私は嬉しい悲鳴をあげた。
「うん、こんなに早く売り切れてしまうなんて、思ってもみなかった」
オリバーもホッとした表情をしている。
「さあ、今日は閉店の札をかけて、店を閉めよう」
「そうね。明日の準備もあるしね」
私がそう言ったときだった。
ドアの呼び鈴がカランと鳴り、一人の女性が中へと入ってきた。
「申し訳ありません。もう在庫のほうが……」
そう言いかけて、私の口が止まった。入り口に立っている女性が、意外な人物だったからだ。
「サラさん……」
私はびっくりしながらそうつぶやいた。
そうなのだ。店に入ってきた女性は、オリバーの妹、ウィンリー公爵家の令嬢であるサラだったのだ。
「どうしたんだサラ」
オリバーも驚いた様子でサラに声をかける。
「お兄様、シャルロッテお姉様、お久しぶりです」
サラはじっと私たちを見て、こう続けたのだった。
「実は助けてほしいことがあるのです」
「助けてほしいこと?」
オリバーが怪訝そうな顔をする。
私は何か嫌な予感がした。
きっと公爵家で困ったことがあったのではないのか。だからわざわざサラがここまで助けを求めてきたのだ。でも、そうなると、オリバーはまた元の公爵家と関わりを持つことになる。もともと貴族であるオリバーは、平民の私のもとから離れてしまって、今までの地位に戻ってしまうのではないのだろうか。
そんな漠然とした不安が私の心に広がっていった。
「いったい何があったんだ?」
オリバーの言葉にサラがこう答えた。
「お母様が、お母様が大変なことになっているの」
「大変なこと?」
「謎の病にかかってしまい、日に日に衰弱しているの。医者にも見放され、このままでは数日の命だといわれているわ」
サラは目に涙をためて続けた。
「お兄様、無理を承知でお願いしたいの。シャルロッテお姉様は妖精と話せる不思議な力をお持ちだと聞いているわ。私がこうして元気になれたのも、お姉様がその力を使って治癒の実を取ってきてくれたおかげです」
「……」
「お兄様、お姉様、今度は私ではなく、お母様を、お母様を治癒の実で救っていただけませんか?」
じっとサラの話を聞いていたオリバーがゆっくりと口を開いた。
「サラ、申し訳ないがそれは無理な相談だ。いくらシャルロッテが妖精の力を借りたとしても、魔物から完全に守られるわけではない。妖精の力が及ばない強い魔物がたくさんいるんだ。シャルロッテをそんな危険な場所に連れて行くことなどできない。お母様には申し訳ないが、治癒の実を取ってくるなんて無理な話だ」
「……そうよね。私も過ぎたお願いだと思っていたのですが、どうすることもできなくてここまで来てしまったの。本当にごめんなさい」
サラはそれだけ言うと、さっと踵を返し、逃げるようにしてパン屋から出ていってしまった。
「いいの? お母様のために治癒の実をとってこなくても」
「君を危険にさらすわけにはいかないよ。それにあれだけ君にひどいことを言った母だ。助ける義理なんてないよ」
そうオリバーは言い放ったが、実際のところは母親のことが心配で仕方なかったはずだ。いつもオリバーの横にいる私だから分かる。彼は決して家族のこと、母親のことをどうなってもいいなどと思ってはいない。心の奥では何とかして母親を救いたいと思っている優しい人間なのだ。
正直、もうウィンリー公爵家とは一切関わりたくないと思っていた私だが、思い切ってこう話した。
「ねえ、治癒の実を取りに行きましょう」
「えっ?」
オリバーは一瞬言葉をつまらせ、こう述べた。
「それは駄目だ。君を危険な目には絶対に合わせられない」
「大丈夫よ。前も上手く取ってこられたでしょ」
「たまたま、強い魔物が出てこなかっただけだ」
「今回も大丈夫よ。私には野生の勘があるの」
「野生の勘?」
「そう、野生の勘。今回もきっとうまくいくと野生の勘が言っているわ」
「しかし……」
「あなたは妹さんのために無鉄砲に一人で魔の森に行くような人だわ。本当はお母さんのためにも治癒の実を取りに行きたいと思っているはずよ」
「……」
「大丈夫。私の野生の勘を信じて」
私はそうオリバーを説得し続けた。なんとかして母親を助けたいという思いもあったのだろう、オリバーは繰り返される私の申し出を聞くと、最後は首を縦に振ったのだった。
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