過ち

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過ち

藤咲(ふじさき)さん……起きて、藤咲さん」  藤咲美玲(みれい)は、心地よい微睡みに名残惜しさを感じながらも、その声にゆっくりと瞼を開いた。 「う……んん」 「ふふっ……まだ眠い?」  上から降ってきた苦笑混じりの声に顔を上げる。目の前には、はだけたシャツを羽織り、タバコをくわえてこちらを見る男性がいる。その人はベッドに腰かけ、甘やかな笑みを浮かべて美玲を見下ろしていた。 (え……え!?)  その人が上司の朝霞(あさか)怜士(れいじ)だと理解したとき、心地よい眠気は一気に吹き飛び、美玲は現実に引き戻された。 「あっ……朝霞さん!?」 (ど、どうして朝霞さんが同じベッドに!?)   「おはよう。体は大丈夫?」 「……体?」  その言葉に自分の姿を見下ろすと、大胆に素肌を晒してることに気付き、美玲は慌ててシーツの中に潜り込む。 「あ、あの……これは、どういう」  怜士は一瞬驚いたように目を見開き、美玲を見た。 「……そっか。覚えてないのか」  少し寂しそうに顔を逸らされ、胸が鳴る。 (覚えてない!? なに? なにしたの私!)   「じゃあ、昨日俺と飲みに行ったのは覚えてる?」 「……昨日はたしか残業していて、たまたま朝霞さんと会って飲みに行って……」  美玲は目を泳がせつつ答える。 (そうだ。思いの外飲み過ぎて、すごく酔っちゃって……嘘でしょ。服を着てないってことは、私、朝霞さんとやっちゃったってこと!?)  穴があったら入りたい思いで、美玲はちらりと怜士を見た。当の怜士は相変わらず穏やかな笑みを浮かべ、混乱している美玲の様子を楽しげに観察している。 「タクシーに乗せて帰そうとしたら、君が帰りたくないっていうから……。ごめんね。本当は君をここに寝かせたら帰ろうと思ったんだけど」  美玲は青ざめた。 「まさか……私が襲ったんですか!? ごめんなさいごめんなさい!」  勢いよく頭を下げる。 (いっそ殺してください……)  すると、怜士はすっと目を細めた。 「……さて、どうかな。思い出せないならそれでいい。君には恋人がいるんだし。お互いに今日のことは忘れよう。仕事ではまたよろしくね」 「え……」  怜士は含んだ笑みを浮かべて美玲の頭を撫でると、身だしなみを整えて部屋から出ていった。 「じゃあ、先に行くね」  怜士がいなくなると、美玲は頭を抱えた。 (どっ……どういうこと!? 私ってば、なんでこんな大切なこと覚えてないの……って、あれ? でもなんで私に恋人がいるって朝霞さんが知ってるんだろ……) 「というか私、酔った勢いで本当に……?」 (いくら憧れの人だったとはいえ、恋人がいるのに……)  美玲は罪悪感で胸が押しつぶされそうになった。    昨日、美玲はいつも通り職場で残業していた。美玲は今、区役所の会計課に所属している。昨日は二十一日で、二十五日払いの支払い処理の締切だった。職員の給料を担当していた美玲は当たり前のように残業だ。  たとえその前日に恋人の浮気が発覚しようとも、支払い期限は待ってくれない。美玲は一身に伝票チェックをしていた。  すると、そこへ怜士がやってきたのだ。 「あれ、藤咲さん。まだ残ってたんだ」 「あ、朝霞さん。お疲れ様です」 「お疲れ様。君一人?」 「はい」 「そうか」  怜士は美玲をじっと見つめ、低い声で囁いた。  そして、 「泣いた跡がある」  美玲はドキッとして手で目元を触る。 (嘘……まだ腫れてる!?) 「ふふっ……君は本当に素直な子だ」 「……もしかしてカマかけましたね!?」 「いやいや。勝手に騙されたのは君だよ」 「もう、からかわないでくださいよ……」 (びっくりした……)  怜士は再びパソコンに向かった美玲の隣に腰掛け、その横顔を覗き込んだ。 「……どうして?」 「……え?」 「どうして泣いたの?」  怜士は部下とはいつも一定の距離を保ち、間違っても部下にタメ口なんて使わない人だ。お酒が入っているわけでもないのに。  入庁当時、怜士は美玲の教育係だった。真面目で頼りがいがあって、誰にでも優しくて。いつだって穏やかな笑みを絶やさない完璧な人。  新人の美玲に対してもそれは同じで、どんな仕事も優しく教えてくれた。絶対声を荒らげたりせず、どこまでも丁寧に向き合ってくれた怜士は、美玲にとっては恩人で今でも憧れの人だ。    初めて顔を合わせたあの日からずっと――。  もちろんそれは一線を引いた憧れで、怜士とどうにかなりたいなんて、そんな夢は見ていない。   「……な、なにもないですよ」  目を逸らし、美玲は誤魔化す。 (恋人に浮気されたなんて、口が裂けても言えないよ……)  怜士はその横顔になにかしら悟ったのか、それ以上なにも聞かなかった。 「……そう。ねぇ、今から飲みに行かない?」 「えっ?」 「それ、もうデータ送ったら終わりでしょ?」  ちらりと怜士が伝票の籠を見る。 「あ……はい」 (さすが前任……この分だと、私の事務処理能力が低いことも見抜かれてるんだろうな……)  美玲は急いで仕事を片付けた。  二人は仕事を片付けると、駅の近くのプラネタリウムバーに入った。 「わぁっ……素敵。庁舎の近くにこんなバーがあったなんて」  プラネタリウムバーは、天井がドーム型でプラネタリウムになっており、薄暗い店内のテーブルや椅子にはほのかにオレンジ色の灯りが点いていた。  二人はカウンター席に並んで腰掛ける。 「君、前に星が好きって言ってたもんね」 「私、そんなこと言いましたっけ?」 (たしかに好きだけど……) 「青年部の飲み会のとき、言ってたよ。ああでも、あのときも既にふわふわした感じだったから覚えてないのか。あのときはちゃんと一人で帰ってたけどね?」  くすりと肩を揺らした怜士に見下ろされ、美玲は顔を真っ赤にして俯いた。 「……す、すみません」 「なに飲む?」 「……私、こういうところはあまり馴染みがなくて。ど、どれなら酔わないでしょうか」 「酔わないものなら……これかな」 「じゃあそれにします」 「これノンアルだけど」  怜士は肩を揺らしている。またも怜士にからかわれたことに気づき、美玲は口を尖らせた。   「……またからかいましたね?」 「ふふっ……君はからかい甲斐があるから。ごめんね」 「……いいですもん。バーボンにします」  美玲が言うと、怜士はさらに肩を揺らした。 「また青年部の飲み会のときみたいに酔わないでね?」 「気を付けます……」  美玲はしゅんと肩を落とした。ちらりと怜士を見ると、彼の横顔はまるで彫刻のように整っていて。美玲は思わず時間も忘れて見惚れてしまう。  そのとき、誰かのグラスの中の氷が、カラリと音を立てた。美玲はハッと我に返る。 「……あの、朝霞さん。ありがとうございました」 「ん?」  怜士がグラスから美玲に視線を移した。思いの外艶っぽいその仕草に、美玲は咄嗟に俯く。 「落ち込んでることに気づいて、声をかけてくれたんですよね」 「……いや、違うよ。気付かなかった。気付かせてくれたのは、君の同期の山木(やまき)さん」  怜士はそう白状し、ペロリと舌を出した。 (芹香(せりか)め。また勝手にぺらぺらと)  そのとき、バーテンダーが二人分のグラスを静かに差し出した。 「乾杯」  軽やかな音を立てて、グラスの中の液体が煌めく……。 「……それで、なにがあったのかな?」  それはグラスも三杯目に入った頃。そもそもアルコールに強くない美玲は既にふわふわしていた。 「……誰にも言わないでください」 「うん。もちろん」 「……私今、お付き合いしてる方がいるんです。その人とは、芹香の恋人探しに付き合ってるときに出会って、告白されて……。悩んだんですけど、押されてそのままお付き合いすることになったんです……」 「うん」 「私なりにまっすぐ向き合って、好きになろうって、信じようって思ってたんです」 「うん」  怜士は優しく相槌を打ってくれている。   「……でも、彼にとっては遊びだったみたいで。彼はたくさんの女の子と遊んでたんです。私は恋人なんかじゃなくて……そのうちの遊び相手の一人でした」 「……それで、別れたの?」  美玲は首を横に振る。すると、怜士は驚いたように目を見開いた。 「私からは……とても、言えないです」 「どうして? 君を裏切った人だろう?」 「……でも、優しい人なんです。勝手だけど、普段はすごく優しくて、本当、こっちが心配になっちゃうくらい」 ((しん)君は自分勝手な人だ。快楽主義で、甘い言葉で優しい言葉で、私の不満を言いくるめちゃう)   「……それ、つまり流されてるだけだよね」 「そう……ですね」  隣では、怜士が額に手を当て呆れたようにため息をついていた。 (そりゃこういう反応になるよね……私だって自分がバカだってわかってるよ……) 「……呆れましたか」 「……うん。ちょっと」  怜士は美玲に苦笑を向けた。 「……それから、ちょっとムカついたかな」 「え?」  怜士の予期せぬ言葉に、ヒヤリと胸の奥が冷たくなった。 「……君みたいないい女で遊んでる君の恋人にね」 「なに言ってるんですか」 「……涙」  怜士の手が美玲の頬に触れる。 「泣いてる」 「っ……」  いつの間にか、美玲の瞳から涙が溢れていた。美玲が泣いている間、怜士はなにも言わず、ただ隣でグラスを傾けていた――。
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