現実②

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現実②

 俺は瞼を上げる。  木目調の天井が見える。  最近、よく似た同じような夢を見ている気がする。  思い出そうとするが、脳に靄がかかったように判然としない。近づけば近づくほど遠ざかっていくように感じる。  枕には、最近気になってきた抜け毛が数本と、涙で濡れた小さな跡があった。  デスクの上に下井が作った資料が置いてあった。  さっそく手に取り、紙をめくる。  資料に視線を落としていても、下井がちらちらとこちらを見ていることが分かる。  一通り読み終わって顔を上げると下井と目が合った。  下井は咄嗟に首を真反対に向けて、わざとらしく体を揺らしたりして平静を装っていた。  下井の机の上には、エナジードリンクのロゴがでかでかと描かれた缶が数本並んでいた。メタリックな青と銀が、窓から差し込む優しい朝の光をえっへんと誇るかのように跳ね返していた。  他の社員が、次々にオフィスに流れ込んでくる。 「下井」  おはようと言うような軽い口調で名前を呼んだ。  下井は、呼ばれるのを分かっていたくせに、肩を震わせて固くなった。 「っはい」 詰まったような返事をして、ぎこちない動作で下井は立ち上がる。 目元には、濃い影があった。赤くなった目は焦点が定まらないようで、小刻みに揺れている。髪の毛はぼさぼさで、額に張り付いた前髪はぬらぬらとてかっていて気持ち悪い。ワイシャツの柄は昨日と同じままだ。ベルトの淵から少しはみ出していてだらしない。 「よくやったじゃねえか」  泡のように胸の中に浮いてきたその言葉を、ありのままに言うのは恥ずかしかった。 気恥ずかしさが口元に追いついて、途中から小さな声になった。 朝のオフィスは騒然としている。椅子を引く音。キーボードをたたく音。コーヒーを注ぐ音。あいさつ。雑談。 朝の生活音の中に自分の言葉が沈んだんじゃないかと不安になった。 下井の表情筋は動かない。 やはり届いていなかったのだ。もう一度言おうと口を開きかけた時、 「にまあ」 と音を鳴らして、下井の口が開いた。 下井の不揃いで難解な歯並びがあらわになり、自分の言葉がちゃんと届いていたのだと判断できた。 みるみるうちに下井の目尻はナメクジのように下がり、肌には赤色が滲みだし、目の下の大きなクマと混ざり合ってアメリカンチェリーのような赤黒さになった。大きな体は、先ほどよりも三割ほど膨らんだように見える。 つまり嬉しそうだった。 下井が喜んでいるのを見るのはずいぶんと久しぶりだった。 初めてかもしれない。 下井の顔面の様子は相も変わらず気持ち悪いが、見ていて悪い気はしなかった。 オフィスの騒音が落ち着いてくる。朝礼の時間が近づいている。 下井も朝礼に備えて、その重い腰を下ろそうとする。 笑顔を貼りつけたまま後ろ手で椅子を探している。 だが、言わなければいけないことを言わなければならない。 たった一言だ。 朝礼に差し支えあるまい。 「ただな、下井」  今度は沈むことなく、まっすぐ届いたようだ。その証拠に下井の肩がびくりと上下に動く。 「この資料はお前のミスが原因で朝一番に俺のデスクの上に置いたものなんだろ」  下井の顔から、笑顔が溶けてなくなっていく。真っ赤だった顔からは、みるみるうちに血の気が引いていた。 「なんで一言の謝罪なく置いてんの。せめて、付箋に一言『昨日は申し訳ございませんでした。お時間を割いて申し訳ございませんがチェックをよろしくお願いします』って書いて貼っとけばいいだろう。そういう配慮がないからお前はいつまでも三流なんだよ」 「ガッシャ―ン!」  ドラを打ったような、それよりも暴力的な音が耳をつんざく。  雷に打たれたようにオフィスは静まり返る。 どこかで同じような音を聞いたことがあると脳が既聴感を告げる。  目の前には、両手を自分のデスクに叩きつけて茫然としている下井の姿があった。  不規則に肩を上下させ、並びの悪い歯の隙間からはしゃっくりのような息がリズム悪く漏れている。  時間が止まったように、下井は動かない。  周囲はそんな下井を遠目から見るだけで、誰も話しかけようとはしない。  足の小指の爪ほどの大きさしかない目を限界まで大きく見開いていた。  エナジードリンクの缶が二個三個と床に転がり落ちる。 「コツ、コツ、コツ」 この場には不釣り合いなほどに軽すぎる音が鳴った。  下井の顔がゆっくりと動く。やはり亀のようだ。  赤い目が、まともに俺を見た。瞳孔が開ききった黒目には怒りと恐怖が混じっているようだった。 「やめてください」  下井の声は裏返ってしまって、女のようだった。 「放してください。許してください」  下井の悲鳴にも似た懇願が空気を震わせる。 「なんで、僕なんですか!」  下井が叫ぶ。それと同時に、吊り上がった下井の目尻から涙があふれ出す。  何度も目を拭うが、あふれ出してしょうがないようだ。  俺は息を呑んだ。  下井の巨大な体とバカでかい声に心臓が縮んだし、何より俺はどこかでこのやりとりを聞いたことがある気がする。それがどこだったか思い出せない。  朝礼開始の時間はとうに過ぎている。  しかし誰も何も言わない。  全員が下井の暴走に注目し、その下井に対峙している俺の言動を待っている。  声を出そうとすると、のどは塞がり、口の中は渇き、舌が張り付いていた。  俺は喉ぼとけを無理に上下させる。 「そんなの知るか。お前が悪いんだろ」  下井の限界まで開いていた目が、さらに見開かれた。  何かを言おうとしたのか下井の口が小さく開く。  しかし、特徴的な前歯がのぞいただけで言葉は出ず、かわりに布が擦れるような「しゅっ」とした音のしゃっくりを出しただけだった。  下井は全身の力が抜けてしまったように、その場にへたりこんでしまった。  甲羅に身を隠す亀のように頭を抱え、丸くなり、 「うわーん、うわーん、うわーん」 と幼稚園児のように声を上げて泣いた。  泣き続けた。  結局下井は泣きやむことができず、同僚に引きずられるようにして早退した。  床に転がったエナジードリンクの缶は、慌ただしさを取り戻したオフィスに溶けるように同化していた。
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