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夢②
ここはどこだ。
そうだあの夢だ。
土下座の態勢、頭をすっぽり覆うようにかけられた黒い布、真っ赤に輝く冷たい大理石の床。
前後左右からかすかな息遣いが伝わってくる。
もうすでに、彼の話は始まっていたようだ。
重い金属がぶつかり合う音、枯れ葉がアスファルトの上を転がる音、夜の洗面所で蛇口から水が滴り落ちる音、波の音、川の音、転がる小石、こすれ合う枝葉・・・。
「何か思い出しましたか」
こんなことは初めてだった。
となりに座っている男が話しかけてきた。そのとき初めて夢の中で声を出すことができるのだと気付いた。
「思い出すとは、何をです」
男の声は湿り気がなく、枯れ草をなでる秋の風のようだった。
「彼の話を十二回聞いているうちに、我々は人生で初めて見た夢を思い出さなければいけないのです」
「初めて見た夢? 赤ん坊のころに見た夢ですか」
男はふっと息を漏らす。笑ったようだ。
「赤ん坊のころに見ている人もいれば、もっと後になって見る人もいるでしょう。なにせ人生で初めて見る夢は、彼からのプレゼントなのです。この世に生を受けた人間への祝福なのです」
男の声からは、無駄な質問は受け付けないという硬質なものを感じる。それでも聞かずにはいられない。
「その夢を思い出せなかったらどうなるんですか」
声が大きくならないように注意しつつゆっくりと聞いた。
「お返ししていただくほかありません」
男の口調ははっきりとしていた。その口調はもうこれ以上は話さないということを告げていた。
彼の声があらぶる。
土砂降りの雨がビニール傘を叩きつける音がする。
終わりが近づいている。
ピタっと雨音が止む。次の瞬間、
「ガッシャ―ン」
爆発音が空気を震わせる。
彼の話は終わった。
「思い出しましたか」
俺は姿勢を崩すことはできない。心臓がずっとばくばくとやかましく鳴っている。
彼らの足音が聞こえる。
コツ、コツ、コツ。
床の硬さを楽しむように、その音を響かせる。
「・・・そうですか。残念です」
そう言うと、隣の男は立ち上がり、俺の肩を掴み無理に立たせる。
「放してください、許してください」
俺の声が漏れる。寝小便がばれた子どものような情けない声だった。
顔に掛けられていた布が乱雑にあげられる。
目の前には、スキンヘッドの頭にバニーガールのようなウサギの耳を生やした男がいた。目にはサングラスをかけ、真っ黒なスーツとネクタイを身につけている。
「先輩、今日は非番やったんじゃないんですか」
いつの間にか若い男がすぐそばに立っていた。
その男も黒いスーツを身に纏い、若者らしくパーマをして跳ねている茶色の髪の上に不自然なウサギの耳があった。
「しゃあないやろ・・・。自分の目で確かめたくなったんや」
スキンヘッドの男は関西弁でしゃべると、先ほどまでの硬質な感じから、湿度を持ったしわがれた声となった。
若い男は俺の顔を覗き込む。透けて見ることを拒むようなどこまでも真っ暗なサングラスをかけている。
「あー、この人あれですか。先輩が初めて夢を与えた人ですか。ほな思い入れもあるはずですね」
若い男は、問題が解けたように明るい声を出した。
「かわいい男の子やった。当時の俺が用意できるとびっきりの夢を与えたんやけどな」
スキンヘッドの男が俺の頭に手を乗せる。臭いものを取り除くかのように、黒い布をつまみ上げる。
「待ってください」
思っている以上に大きな声が出た。
「どうなるんですか。その夢を返してしまったら、僕はどうなるんですか」
自分の声とは思えない、高い音が耳に響いていた。
気付けば、目線の位置は下がり、男たちを見上げる形になっていた。
心臓は生き生きとスピードを上げていた。
僕は子どもの姿になっていた。
「どうなるって、簡単や。もう今後一切、夢を見いひんくなる。自分の夜から光が消えてなくなる」
若い男が小さい子を諭すように答える。
「見てみい」
スキンヘッドの男が斜め上の天井に向けて人差し指を向ける。
僕は、その指の先に目をやる。
なぜ今まで気づかなかったのだろう。そこには太陽のようにギラギラと光を放つ巨大な月が浮かんでいた。
「これから君は月に見放されるんや。これからの君の人生は月のない人生や」
かすれた声が耳朶に伝わる。
意味が分からなかった。でも、それがとてつもなく何か恐ろしいことだということは感じ取れた。
「待ってください。思い出します。思い出せます」
男たちの腰に手をのばし、ぎゅっとつかんだ。あまりにも小さな自分の手に驚いた。
僕は、むぎゅっと目をつむった。
瞼の裏の暗闇の中に映像が浮かぶ。
父が営む小さなねじ工場で鉄の塊を叩く巨人のようなプレス機。
過労で倒れた父のお見舞いの帰りに寄った公園で声もなく涙を流す母の近くに舞うくすんだ色の落ち葉たち。
夜遅くに何度も起きて、水を飲む母の後ろ姿。
夜の真っ暗な海。
父と母と手をつないで歩いた家まで続く川沿いの道。
蹴り上げた小石が転がっていく。
見上げると、父と母の笑顔の向こうで風が枝葉を揺らしている。
思い出せそうなんだ。
暖かくて、いい匂いがしたあの夢を。
「ガッシャ―ン!」
脳内に衝撃が走り、停電したかのように闇が広がる。
甘く、生臭い、そんなにおいが鼻につく。
何かがいる。
闇に目を凝らす。
ぬっと、下井の顔が漆黒から浮き出る。
僕の弛緩していた体は一瞬で強張った。
「にまあ」
と音を鳴らして下井は口角を上げる。
難解な並びをしている歯が闇の中で白く、白く輝く。
お前じゃない。
僕が見た夢は、お前じゃない。
「やっぱり思い出せへんか」
落胆の色を隠せない声が真上から降ってくる。
「お前が悪いんや。がっかりや」
その声と同時に、顔を覆っていた布が「しゅっ」と滑り落ちる。
僕の悲鳴は、もう声にはならない。
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