竜を呼ぶ姫

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竜を呼ぶ姫

 高く、低く、妙なる調べを女の声が歌い上げる。  高く澄み渡った青い空に響き、小鳥や雲にまで届こうという歌声は、人外のものまでその意志を届けていた。  萌葱色の艶々とした草が風に吹かれ、波打つように輝く。  小高い場所に立った女性は、白い巫女服を風にはためかせ、目を閉じ己の歌に酔いしれていた。  遠くからィイイイィィイ……と歌に共鳴する音がし、女性の言葉に応える。  女性のプラチナブロンドが一際大きく風に嬲られたかと思うと、同色の睫毛がふわりともたげられた。  白金色の睫毛に縁取られた瞳は、空を映したかのような色だ。  薄く、中央の瞳孔が引き立つ色。  見る者の心すら見透かすような、あるいはこの世の果てまでも見通す真理の青。  彼女が歌う歌は、ヒトのためのものではない。  この世の覇者とも言える存在に、彼女の意志を伝えるための歌だ。  碧空の彼方、黒い点と思えていたシルエットがぐんぐんと近付いてくると、ゴォッと圧倒的な突風を起こし通り過ぎていった。  子爵や男爵クラスの屋敷なら、その庭も含めた土地がすっぽり収まる大きさの体躯と翼。両翼を開けば大地に横長の影が落ちる。  遙か太古よりこの世界を生き、人知を越えた頭脳と力を持つ存在――竜。  突風は次から次に吹き、何十という竜が女性の上を飛び越えていた。 「……相変わらず見事な歌だな」  そこに温厚そうな男の声がし、女性はふと意識を現実に引き戻した。 「……ライオット」  ヒトの言葉を発した女性は、銀の糸を思わせる声音をしている。スッと引き絞られ、どこか温度が低いのに、人を魅了して止まない声。  女性の視線の先には、風に嬲られた黒髪を撫でつけている男性がいた。  ツンツンとして硬そうな髪は、放っておくと逆立ったような形になってしまう。  彼は毎朝懸命に髪を梳るのだが、一日が終わる頃には風にまかせたスタイルになる。  毎日そんな戦いを繰り広げているのだが、飽きずに髪を拘るには理由があった。 「――また頭が自由な事になっていますよ? 小鳥の雛でも潜んでいそうですね」  女性の声がふと柔らかくなり、伸ばされた手がライオットの髪を撫でる。 「酷いな、シーラ。……いや、君のそういう所が好きなんだが」  自分の髪を撫でる女性――シーラの手を、ライオットは黒曜石の目を細めて受け入れていた。 「まったく、君はこんなにも美しい髪をしているというのに、どうして俺はこうなのかな? 折角毎朝、君に見合った男になるため意識してセットしているというのに」  今度はライオットがシーラの髪を手に取る。  風に嬲られても絡まることなく美しく流れているロングヘアは、日差しに当たり白金の輝きを見せつけている。  指に絡む髪は冷たく、ツルツルとしていて心地いい。  その感触そのものがシーラのようだと思う。 『孤高』という言葉がぴったりの、何にも染まらない美しい美姫。  己の意志をハッキリと持ち、男性にも竜相手にも渡り合う聡明な姫。 「セットしても戻ってしまうのなら、いっそ整えなくてもいいのでは? 私はそのままの髪型でも十分だと思いますよ」 「……気分だよ」  時に辛辣な事を言うというのに、ライオットはシーラに惹かれてやまない。  意地悪な事を言いつつも、ライオットの髪を撫でる手つきが優しいのも彼女の魅力だ。  彼の部下たちが言う『ツンデレ』なのか分からないが、シーラが時折見せる笑顔や優しさが溜まらなく好きだ。 「そろそろ時間なのですね」  ライオットの髪を撫でていた手を下ろし、シーラが呟く。  空を翳らせていた影は、もう西の空に飛び去っていた。 「君が我が国に嫁いでくれると決心して、皆喜んでいるよ」  いつも通り穏やかな瞳で話す彼は、黒い装束に黒い甲冑。  茶色の革手袋にブーツ。  髪や目の色と相まって地味な印象だが、その佇まいは人の目を引く。  一本筋が通ったかのようなしっかりとした体幹。  甲冑の胸部分は分厚く、革鎧に包まれた腹筋も彼が動けば六つに割れた形がうっすら分かる。  スラリと伸びた脚にも筋肉がしっかりつき、ライオットの立ち姿は決して折れない黒皮の木に思えた。  同時に、しなやかな野獣のようでもある。  二重の幅が広い目元は、シーラの国の女性にも人気だ。  キリリとした眉の下、睫毛の長い目で流し見られれば、どんな淑女でも心を奪われてしまう。 「私が嫁いで、あなたに注がれる女性の視線も変わればいいのですが」  遠くを見たままシーラが言えば、ライオットがニヤリと唇をもたげた。 「俺の浮気を心配しているのか? 幼い頃から君しか見ていないというのに?」  くい、とシーラの細い頤がもたげられ、ライオットと見つめさせられる。 「私の裸を見たのですから、責任はとって頂きます」  あくまで冷静に言い、シーラはライオットの手を優しく払いのけた。 「えっ? は、裸!? ま、まだ見た事ない……っ、けど」  動揺したのはライオットで、必死に自分の記憶を手繰っているようだ。  二十五歳になり当たり前に酒も飲んでいるが、その力を借りてこのシーラに不届きな事をした覚えもない。  焦っているライオットを後ろに、シーラは風を含んで広がる巫女服を押さえ歩き出す。 「おまけに私を泣かせました」 「えっ? えっ? それ、本当の事か? 君の夢じゃなくて?」  後ろからついてくるライオットの声に、シーラは口元を笑わせる。 「雪解け水が冷たいレティ湖に、私を突き落としました」 「あ! あー……」  更なるヒントに、ライオットが立ち止まり項垂れる。けれどすぐに歩き出し、シーラの横につく。 「あれは子供の頃の話じゃないか。犯人は俺だけじゃなくてルドもだし」 「見たものは見たのです」  サンダルの素足に当たる、みずみずしい草の感触が気持ちいい。  吹き抜ける風もどこまでも広がる山と空の風景も、シーラが愛したものだ。 「ねぇ、ライオット」  顔に掛かる髪を掻き上げ、シーラが隣にいる彼を見上げる。 「……幸せにしてくださいね?」  それは一般的に聞けば女性が男性に願う、可愛らしい言葉かもしれない。  だが一国の王女であるシーラが言えば、言葉の裏に「私の国と民も」という意味が含められていた。 「あぁ、分かっている」  すべてを承知の上で、ライオットは頷いた。 「行こう。君を護衛する竜たちも集まっているし、ガズァルに向かう馬車も待っている」 「ええ。ひと月後には式が控えているのは分かっていますし……、こうして国で歌えるのもあと僅かですね」  自然と繋がれた手は、幼い頃から身近な感触だ。  互いを男女と意識する前から、二人の付き合いはある。  ――いや、もう一人幼馴染みがいた。 「ルドガーは式に来てくれるのですよね?」 「ああ。招待状を出して、出席するという返事ももらっている」  シーラは現在二十三歳だが、ライオットともう一人ルドガーという男性は二十五歳だ。  三人はそれぞれ異なる国の王女、王子で、ルドガーは十歳の時に両親が亡くなり現在は皇帝として忙しく働いている。  それぞれ思春期になった頃から……あるいはその前から、三角関係のようなものを築いてきた。
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