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夕日に赤く染った窓の外を見て、少し早歩きで廊下を進む。突き当たりにある職員室のドアをコンコン、と二回叩いて「生徒会の里野です」と名乗れば、生徒会顧問である先生がキーボードを打っていた手を止めて、パッとこちらを向いた。
「ああ、里野さん。見回り終わった?」
そう言いながらこちらに近づいて来る足どりは、少し重い。もう年配の先生だから、足を痛めたのかもしれない。現在期末テスト前の問題制作期間中で、生徒である私は職員室ヘ入室が禁止されてることが歯痒かった。
「はい、音楽室以外は終わりました。……先生、足大丈夫ですか?」
「ああ、最近足がどうにも重くてねぇ。この後整骨院に行ってくるわ」
「……すみません」
「ふふ、いいのいいの。むしろ入られちゃ困るもの。まあ、あなたはカンニングなんてする必要もないでしょうけどね」
ケラケラと明るく笑う姿は、私が学校に在籍している三年間でも全く変わっていない。きっと明日にはまた元気に通勤してきてくださるのであろうその姿に、私も思わず笑みがこぼれた。
「さてと。じゃあまたこれ、よろしくね」
そう言って先生から渡されたのは、音楽室というネームプレートが付けられた鍵。
「はい。先生もお気をつけて」
「ええ。まだまだ私も現役教師を続けるわよ」
そう言いながら鞄を肩にかけ、じゃあまたねと手を振って少し足を引き摺るようにしながらも気丈に振る舞いその場を立ち去った。
「……ほんと、かっこいいなぁ」
この学校でも年長の部類に入る先生だが、こうして元気に働いている姿を見ると私も元気をもらえる。私が生徒会に入ったのも、少しでもこの先生のことを知りたいと思ったからだ。そして、微力ながらも先生の力になれたら……
「あ、時間!」
スマホの待ち受けを見ると、表示された時間は十八時四十六分。下校時刻である十九時の十分前までに『あの場所』に着いていないといけないのに。私は慌てて、廊下を早歩きした。
廊下を走ることは禁止だ。それを日々生徒に呼びかけている私は、たとえ誰も見ていなかったとしてもその規則を破ってはいけない。
西棟から東棟へまっすぐに伸びた廊下を真ん中あたりまで進むと、たくさんの絵や彫刻が並べられた階段が現れる。これは、我が校各学年六クラスのうち芸術系の二クラスが使う中央棟の階段だ。私たち普通科の生徒は、自教室のある西棟と特別教室のある東棟を行き来する際に通るくらいで、中央棟の教室内に入ったことのある人はほとんどいない。芸術系のクラスについて知っていることなんて、音楽科と美術科の美術科の二クラスあることと、終業式でよくコンクールの受賞結果を発表されていることくらいだ。そのくらい、普通科と芸術系の二学科は隔絶されていた。
この階段は、そんな普通科と芸術二学科を隔てる境界のようなもの。この上の階には、西棟や東棟に繋がる廊下は無い。ただの県立学校だったはずの場所が、芸術を極める覚悟を持った人間だけが立ち入る芸術の学び舎と化す。私はその境界に、一歩踏み出した。境界の向こう側への侵略に、訝しむ人はいない。すれ違う芸術家の卵たちは明るい顔で私を振り返り「見回りおつー。またね、美空ちゃん」「あ、さとちゃん。私の楽譜見なかった?」「美空、また今度デッサンさせて!」と挨拶してくれる。それに対して「西美術室もう誰もいない? オッケー。またね」「また譜面台じゃない? ……ほら、あった」「今日はもうダメだからね。明日の昼休みでいい?」と返事をして、階段を降りる背に手を振って見送る。私がこの場所に受け入れられ、紛失したアヴェ・マリアの楽譜を一緒に探したり人物デッサンのモデルになったりしているのは、左腕につけた『下校見回り担当』の腕章によるものだ。
職員室のある二階から、階段を登っていると段々と聞こえてくる楽しそうなピアノの音。他の楽器の音はもう聞こえない。
この音を聞けるようになったのも、腕章のおかげだ。
最後の見回りの場所――音楽専攻室のドアの前で、思い出す。
初めてここに来た時、私はあんたのことが嫌いだったんだよ。
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