ピアノの音と知らない顔

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「……うっそでしょ」 「あはは」  呑気に笑う鈴崎を、私は思わず睨みつける。  音楽科はある程度専門実技の実力があれば勉強に関しては多少免除されるという話は聞いたことがあるが、流石に多少の範囲を超えている。  このワークは一切手をつけられた形跡がなく、ここまでやってと指定されたページがかなり後ろの方にあることを考えると今まで何度も課題として出されていたにも関わらず一度もやっていなかったのだろう。これは先生も怒るわけだ。それなのに一切反省の色を見せず笑っている彼に、腹が立った。 「ここまでやるのはたぶん無理。とりあえず、このページまでを目指すよ」  そう言いながら私が指したのは、ワークの本来やるべき範囲のちょうど半分辺り。一時間でここまでできれば上出来だろう。しかし、それでも三十八ページある。それなのにいまいちやる気を見せない彼の姿に苛立ちながら、ワークの最初のページを開いた。 「美空ぁ、もう終わらない? どうせできないし……」 「私を巻き込んでおいて大してやらずに帰るつもり? 一時間きっちりやってもらうから」  開始十分、早くも弱音を吐き始めた鈴崎に眉間にシワがよるのを感じた。こいつ、今までピアノの実績で全て何とかしてきたのだろう。まだ一ページも進んでいないのに、疲れたピアノ弾きたいと言って手を止める。名前で呼ぶなと何度か言っても、一向に直そうとしないためその点は諦めた。 「ほら、ここ。三単現はもうわかるよね。わからないなら中学からやり直して」 「えーっと……とりあえずS付ければいいんだよね?」 「違う!」  人が教えているのに、こうも話を聞かないとはなんて失礼なやつなんだ。ああ、早く帰りたい。窓の外では遂に日が沈み、夜が訪れた。暗いなぁ……帰るの怖いけど、仕方ない。できる限り走って帰ろう。 「よし、できた!」 「……最初から間違えてるけど」 「えっ、うそ!?」  やっと見開き一ページ終わらせるも、正答率は四割。一体どんな勉強をしていればこうなるんだか。  間違えていても丸つけをしてあれば大丈夫という課題らしいので、解説をしながら私が丸つけをする。解説をちゃんと聞いているのか、気にするのはやめた。聞いていなかったとしても私が困ることは無い。今はとにかく、彼に早く課題を終わらせてもらって早く帰りたい。その一心でひたすら初歩的な英語を教え続けていた。 「終わった!!!」 「はい、丸つけするから貸して」  目標にしていたページまで何とか終わらせられた鈴崎はシャーペンを机に置いて腕を伸ばす。反対に私は赤のボールペンを持って、ワークを自分の方に向けた。  まる。まる。まる。あ、これ惜しい。まる。まる。まる。まる。ばつ。まる。まる。まる…… 「……凄いね、間違ってるの二問だけだよ」 「マジ!? よっしゃ!」  あんなに面倒くさそうにしていたけれど、私の話をちゃんと聞いていたのだろう。ワークを進めるうちに正答率が上がり、最後の見開きでは二十問中十八問が正解だった。 「よし、帰ろう!」  鈴崎がせっせとワークを閉じて机に出していた文房具を鞄に仕舞うのを横目に、私は窓の施錠を確認する。 「……うん、全部閉まってる」 「じゃあ出るか」  既にドアの近くの電気のスイッチの前で準備万端な鈴崎を追いかけ、私が廊下に出たことを確認して電気を消す。 「いやー、助かった。ほんとありがとう」 「本当にね。これは感謝されてもいいと思う」 「今度からはちゃんとやるよ!」 「そうしてください」  こんなことになるなんて、もうこの人とはできれば関わりたくないな。嫌悪に近い感情を抱きながら廊下を歩く。もう私たち以外人っ子一人いない校舎は、昼間よりも怖い。コツコツと響く足音がいつもより大きく聞こえる。一人じゃなくてよかった、なんて思いたくない。そもそもこいつのせいなんだから。 「失礼しまーす……って、やっぱりもう誰もいないか」  職員室に着いてドアを開けるも、当然誰一人いない。 「ちゃんと出したよーっと」 「まあ、あそこまでできてれば留年する羽目にはならないんじゃない?」 「だよな! いやぁ、本当に美空のおかげだよ」 「そうでしょうね。じゃあ、私帰るから」  私が一足先に職員室を立ち去ろうとすると「待って!」と呼び止められた。 「なに?」 「帰るのって、歩き?」 「そうだけど」 「じゃあ送っていくよ」 「は?」  私が目を丸くしているうちに、鈴崎は私が持っていた鞄を手際よく奪い「持ってく!」と言って自分の鞄と一緒に抱え直した。 「別にいい」 「そう言わないでよ。あ、そうだ。明日の放課後って空いてる?」 「……空いてる」 「じゃあ音楽室に来てよ。いいもの見せるから」  今日のお礼に、と話す鈴崎に、胡散臭いなと思いながらも私は頷いて、二人並んで学校の最寄り駅までの道を歩く。  さりげなく車道側を歩く姿に、こいつも紳士かと頭に生徒会の先輩方の顔が浮かんだ。
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