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「さあ、いこうぜいこうぜ」
孝の声がグラウンドを引き締めた。ノックをしている中川先生が俺に向ってバットを投げるふりをして頭を下げた。たぶん斧投げを催促しているのだろう、しょうがない、今度の土曜日の午後にでも誘ってやるか。
「ばあちゃん、雄二いるか?」
「まあだけえってくるわけねえべ、、玉投の練習しとるよ。飯食ってくか?」
「うちにも言ってないから今日はいいや、雄二が帰って来たら俺んちに顔出すように言ってくれるかばあちゃん、たまにはゆっくりあいつと野球の話がしてみたくなってな」
「ああ、飯食ったら顔出すように云っとく」
俺の背筋に厭な悪寒が走った。あんなばあちゃん子の雄二がばあちゃんに隠し事するなんて考えられない。俺はママチャリでエバの家に向った。
アパートの下に見覚えのある自転車が階段の手摺に寄りかけられている、あれは雄二自慢の二十段変則だ。スタンドを取り外しているので置く時は必ずどこかに寄りかけるのだ。二人でいるのか、それとも母親のサラさんもいるのだろうか、たぶんサラさんはこの時間徹平の付き添いで病院にいるはずだが。少し時間をおいてから寄ってみようか、八時頃になればサラさんも病院から戻ってくるだろう。今の俺にはエバと二人きりになる余裕も勇気もない。久し振りに『よし乃』を覗いてみよう、なんとなくぎごちない別れ方をしてから行きにくい。顔を出していないが、考えてみれば客と女将の関係から脱出し損ねただけで、俺に遠慮する道理はない。彼女には大金持ちのパトロンがいて俺に入り込む余地なんかありはしないのだ。やっちん、よっちゃんの間柄でいいじゃないか、それ以上の進展があればその時はそれで対処すればいいいのだ。先輩に咽喉掻っ切られてドブに沈むのもそれなりにカッコよくていいだろう。西日がガラス戸を真っ赤に染めている。冬場と違い六時を回ったのに一向に暗くならないからなんとなく飲み屋の暖簾を潜るのが照れ臭く感じる。ガラス戸の中にぼんやりと客の足が並んでいる、こんな時間から『よし乃』に客がいるのは珍しく、大体俺より早く酒を飲んでいる奴はそうはおらず、どうせろくな仕事をしていないのだろう。これ見よがしに大声でビール注文してやろう、いかにも常連見参て感じで振舞ってやろう。
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