やっちん先生

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 タイムリミットが近づいている。こいつらは俺の出勤前に残された、僅か数分の貴重な時間を狙って邪魔をする。退屈な一日が始まろうとしているのに、いや使い切れないほどの時間を無駄にしているのに何故この時間にターゲットを合わせ、俺に苦痛を与えるのか。俺がどれだけ地獄の苦しみを味わっているか、こいつらにはわかっちゃいない。本当にもうだめだ。一点に神経を集中させて、その螺旋のように捩れた筋肉を締め付ける。通常の呼吸ではもたない。顔の半分をしかめて、もう半分の顔の、薄く開いた唇から大気中の不純物を濾過しながらやさしい酸素だけを吸いとる。しかし二分が限界だ。神が想定した耐久度を超えた締め付けはドリルのように脳天へ突き上げる。 「か、母さん、早くしてくんねえか」 「失礼ね、二階のトイレ使えばいいじゃないの。あなた達専用に作ったトイレなんですから」  くっ、ふざけやがって、俺は内腿の筋肉が引き攣る寸前まで硬直させ、鷹が野ウサギを掴み殺すように階段手摺を握り締め、横歩きで一段一段を確実に踏みしめて登る。 「おおい、美恵子、いつまでしゃがんでんだよ。学校に遅れちまうじゃねえか」 「そんなこと言っても仕方ないでしょ、生理現象なんですから。トイレぐらい好きな時間にゆっくりさせてくださいよ。下のトイレ使わせていただいたらどうですか?どうせ私がお掃除するんですから」『キューキュルキュルギュー』くわっ、なんだ一体その音は、猛毒ガスが液化の途中で発生する腐敗音か、それとも猛禽達が腐肉を食いちぎる悦楽の宴か。ち、ちきしょう。あっ言い遅れました。俺は鎌倉の八幡高校に勤める徳田安男です。高校に勤めているからといって先生ではありません。雑役係りと申しますか、そうそう昔は用務員さん、その昔は小使いさんなんて、実に無礼な呼び方をしていましたね、学校に家族で寝泊りして、生徒達の為に色々ご苦労なさってくれたのに。今では学校に寝泊りする制度はありません、夜間の警備は警備会社に委託しています。ですから一般の市職員と同じ就業時間であります。学校ではやっちん先生と呼ばれています。
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