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桜の季節(後編)
「炊き出しで優実に出会ったことが、俺の人生を変えたよ」
「そんな、秀一郎は、私たち予備校の救世主だったのよ」
「あの炊き出しで食べたカレーは、人生で二番目に美味かったよ。一番は、家庭の味だけどね」
故郷に帰る直前、秀一郎はヤスさんに誘われ、ホームレス向けの炊き出しに並んだ。主催者側にいた福祉系学部に在籍していた優実の誘いと、ヤスさんの、
「こいつ医学部出身なんだよ。何とか使ってやれねえか」
と言う懇願で、優実とその父が経営する塾の講師に誘われた。
優実の父親に、
「栄光だけでなく、苦しみを知っている君はただ頭が良いだけでなく、人物としても評価に値する」
と言われた時には、人目をはばからず号泣した。
秀一郎は医学部志望の学生を受け持つ予備校の講師として採用された。
ここが最後の踏ん張りどころだと、秀一郎は粉骨砕身働いた。もともと勉学はできたのだ。教えることは得意だった。
そして、化けた。優実と父親が経営する予備校の看板講師になったのだ。
講義には連日受講者が押しかけ、講義録『医学部保証、医師未保証』は何重版も重ねる大ベストセラーになった。
名門医学部を出て、医学会から見放された男、という肩書も、予備校の世界では受けた。著書は『反逆シリーズ』として何冊も売れた。医者への反逆、と受け止められたようだ。予備校界隈では、稀有な人材としてカリスマ的な人気を誇った。
給料は増え、両親の元へ、少ないながらも仕送りをすることができた。奨学金返済のめどもたった。医師国家試験に恋々としなくなったためだろう、うつ病は寛解し、睡眠薬の必要も無くなった。
優実にプロポーズされたのはその時だ。
秀一郎は戸惑った。
「ホームレスやっていた俺に、結婚したいだって? 望めばもっといい奴、たくさんいるじゃないか」
「どん底から這い上がる貴方を好きになったのよ」
その言葉に、嘘は無かった。
二人で懸命に予備校を切り盛りし、子供までもうけた。
秀一郎は、回想から現実へスイッチを切り替え、桜祭りの公園を見た。満開の桜に、楽し気な人々。
だが、秀一郎は、裏側を知っている。
桜祭りの前日には、官憲が桜の代紋をふりかざし、公園に起居するホームレスを浄化する。祭りの空間は、社会から汚いと烙印を押された人物は入ることが許されない、虚飾の空間なのだ。
だから桜は、嫌いだ。
人生を重ねるうち、嫌いになったのだ。
「今年も、お祭りじゃなくて炊き出しに行くのね」
「ああ。悪いが悠馬を頼む」
息子を優実に預け、秀一郎はホームレスへの炊き出し会場へ向かう。
真に社会からサポートされるべき人物を、わずかながら支援しに行くのだ。
今日は豚汁だ。
世話になった、ヤスさん、ゲンさん、キラさんがまぶたに浮かぶ。
そう思いながら秀一郎は会場へと足を速めた。
了
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