ベータの恋

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ベータの恋

 玄関の鍵は開いていた。 「……ゆたか?」  自分の家とは左右対称の玄関扉をそっと開け、遠慮がちに呼びかけた。室内は薄暗くひんやりとしていた。他人の家の匂いがする。幼い頃から嗅ぎ慣れた匂いだ。呼びかけた声は静かな廊下の奥に吸い込まれていった。玄関の端に寄せられて整然と並べられた靴の中、見慣れたスニーカーだけが脱ぎ散らかされている。  返事も承諾も得ないまま、古村(ふるむら)颯太(そうた)は玄関に足を踏み入れた。同じマンションのお隣さんである小泉(こいずみ)(ゆたか)の家は、間取りが全て自分の家とは左右対称だ。入って左手の靴箱の上にはシンプルな木製の鍵掛けが置いてある。最大で五つ並ぶことのあるそこには、今は一つしかかかっていなかった。見慣れたキーホルダーのついた鍵は豊のものだ。他の家族はみな出払っているらしい。小泉家の両親が仕事で帰宅が遅いのはいつものことだが、姉と妹もまだ帰宅していないようだ。 「お邪魔しまーす……」  言い訳程度に口に出して、後ろ手に玄関の鍵を閉める。普段は気にも留めないその音がやけに大きく響いた気がした。スニーカーを脱ぎ捨てて上がり込む。そのついでに豊のスニーカーも簡単に揃えておいた。  リビング・ダイニングに繋がる廊下の左右にはいくつか扉が並んでいる。颯太は廊下を奥へと進み、一番手前のドアの前で足を止めた。少し悩んで控えめにノックをする。コツコツコツ、と、三回。  扉の向こうは静かなままだった。物音は聞こえない。  呼びかけてみようか、それとももう一度ノックをしてみようかと颯太は扉の前で思い悩む。居ても立っても居られず来てしまったが、どう振る舞えばいいのかはよく分からない。とりあえず豊の顔が見たかった。そうしたら少しは安心できる気がする。 「颯太、か……?」  扉の向こうから不意に声が返った。颯太は驚いて肩を揺らす。 「あ、う、うん……!」  上擦った声でうなずき返すが、扉の向こうから答えはない。 「豊、だいじょぶ? どうもない? 一緒におるときに湊くんが突然発情期来ちゃったんやろ?」  上擦った声のまま矢継早(やつぎばや)に尋ねる。湊というのは同じマンションに暮らす年上の幼馴染だ。  湊はオメガで、豊はアルファだ。だから気心の知れた仲ながら、思春期以降はお互いに配慮しあって湊の発情期が近づくとそれとなく距離を取り合っているのは幼馴染仲間はみんな知っていた。今回は湊の想定以上に発情期が早まったらしい。幸いその場にはベータである他の幼馴染――(たくみ)貴教(たかのり)――も居合わせたので大事には至らなかったとそうだが。  学校からマンションに帰り着いてすぐ、偶然出会った貴教から湊はその話を聞いた。 「……豊? なあ、ここ開けてええ?」 「あかん」  今度はすぐに答えが返った。ぴしゃりと拒絶された気がして颯太は悲しくなる。とは言え、心配で素直には引けない。  恐る恐るドアのレバーに手をかけて下に押した。豊は鍵をかけてはいなかった。無防備にドアが開く。 「あかん言うたやろ」  薄暗い室内で豊はベッドに寝そべっていた。マンションの外廊下に面した磨りガラスが夕焼けにオレンジに染まっている。そのせいか、室内は少しだけ赤く見えた。  気怠そうに、豊が身を起こした。片膝を立てて座る。それから、少し癖のある髪に指を差し込んでイライラと掻き(むし)った。  ベータである颯太は、オメガの発情期もアルファの発情も知らない。学校の性教育で習った程度の知識しかない。ベータとして人並みの性欲はあると思う。好きな相手のことを思えば高ぶるし、その熱を自分で慰めたこともある。どうしようもない体と心の反応は、颯太にも経験はある。  ただ、オメガの発情や、その際のフェロモンに誘発されて起こるアルファの発情というものは、その比ではないらしい。もっと強烈で、無慈悲で、容赦がないらしい。理性などという脆い剣では抗しえない本能だそうだ。  ベータの自分には、きっと一生分からない。 「やって……心配なんやもん。なあ、大丈夫?」  部屋に入り扉を閉める。玄関のときと同じく、今回も颯太は後ろ手に鍵をかけた。施錠の音が小さく鳴る。玄関の時よりもささやかだったが、その音はやけに耳についた。豊は気づいただろうか?  ベッドに近づく。乱雑に掻き混ぜたせいで乱れた前髪の下から豊が自分を睨み上げた。 「……っ」  射竦(いすく)められたかのように颯太は体を強張らせた。ごくりと生唾を飲み込む。豊にこんな目で睨まれたことはこれまで一度だってなかった。  綺麗な二重に縁取られた彫りの深い瞳が、情欲に揺れている。豊は『アルファ』だと聞いて万人が想像するアルファそのものの容姿をしている。すらりと背が高く、しっかりと筋肉がついていて、顔は恐ろしいほど整っている。両親ともに日本人の筈だが、異国の血が混ざっていると言われても疑わないぐらい彫りが深い。  ただ、中身はどちらかと言うと三枚目だ。疑いようもなく関西人である。面白いことと悪ふざけが大好きなので、だからいつも、整った綺麗な顔をくしゃくしゃにさせて笑っている。  その時にいつも隣にいるのは幼馴染である颯太だった。物心つく前から一緒にいるが、豊にこんな目で見られたことはない。 (アルファの発情って……こんななんや……)  ぞくり……と、背筋が震えた。それは多分、恐怖にではない。 「豊、あのさ……」  固まっていた足を動かして、片膝をベッドに乗せる。それから豊に手を伸ばす。 「触んな」 「……っ」 「いまほんま……俺、なにするか分からんから」 「でも……辛いんちゃうん?」  指を伸ばし、立てた片膝にそっと触れる。びく……っと、豊の体が震えた。豊の手が颯太の手首を掴む。容赦なく力を込められて、颯太は痛みに顔を歪めた。 「ほんまやめろって」 「俺ならええよ?」 「は?」 「ええよ、俺なら。やって豊ほんま辛そうやし。俺に出来ることあるんやったら……」  気遣う声音で恐る恐る告げる。それが同情でも心配でも献身でもないことを颯太本人だけはよく知っていた。これはただの欲望だ。 「今、そんなタチの悪い冗談聞きたい気分とちゃうねんけど……」 「冗談やなくて……俺、ほんまに」  もう片方の手も豊に向けて伸ばす。すっきりとした頬の輪郭が今は少し苦しげに歪んでいる。颯太はその頬を包み込むように手のひらを添えた。 「おまえほんま……っ、やめろって言うてるやろ!」 「……ぅあっ」  その手も掴まれ、ぐっと引かれた。ぐるりと視界が反転する。気づけばベッドに仰向けにされていた。片足の膝から下だけがベッドからはみ出て落ちている。豊に掴まれた手首は体重をかけられ、ベッドに縫い留められてしまっていた。  覆いかぶさるようにして上から見下ろしてくる豊の呼吸は酷く荒い。 「ええよ、ほんまに。やって、こんな辛そうなんほっとけへんもん」 「アホ言うな……。抱けるわけないやろベータなんか」  そう毒づく豊の瞳から理性の光が消えていく。爛々とした瞳の中で本能が燃えている。  これは獣だ。アルファと言う名の。 「ゆたか……」  もう一度、颯太は幼馴染の名前を呼んだ。昔からずっと好きだった幼馴染の名前を。  ベータには、オメガのような発情期はない。オメガのフェロモンも効かない。だからアルファのように発情させられることもない。  ベータに生まれた颯太には、きっと一生、その本能の無慈悲さは分からない。  それでも、どうしようもなく抗いがたい衝動なら知っている。それはただの人でしかないベータにもあるのだ。  それを人は恋と呼ぶ。
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