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オメガの恋
最寄り駅を通り過ぎたところで、諏訪原湊は歩道に見知った後ろ姿を見つけた。ハザードランプを点けて減速し、車を左に寄せて止める。助手席のウィンドウを開けて運転席から少しだけそちらに身を乗り出した。
「……颯太!」
歩道に向かって声を張る。半袖のシャツに黒いスラックスというシンプルな制服姿の古村颯太がピタッと立ち止まった。キョロキョロと辺りを見回し、右斜め後ろに止めた湊の車に視線を止めた。
「湊くん!」
少し驚いた顔をした颯太が、すぐにそれを人懐っこい笑顔に変えて車に走り寄ってきた。少し身をかがめて、ガードレールの向こうから助手席の窓を覗き込んでくる。少し斜めになった颯太の顔は、ニコニコと嬉しそうだ。
四歳下の幼馴染である颯太が自分に憧れているのを湊はよく知っている。それを隠す素振りすらない素直な笑顔を向けられて、湊の方も自然と頬が緩んだ。
「乗ってくか?」
「え、いいん?」
「ええよ。言うてもちょっとやけど。暑いやろ」
最寄り駅から二人の住む大型マンションまでは徒歩でも十五分かからない。それでも梅雨入り前の太陽がすでに盛夏だと勘違いしているかのような炎天下を歩けば汗だくになるだろう。嬉しそうに笑った颯太がガードレールを乗り越えて助手席のドアを開けた。乗り込んでドアを閉め、嬉しそうな表情のまま湊に顔を向けてきた。
「湊くんは大学帰り?」
「ちゃう。マックの美容院帰り」
顎先をしゃくって後部座席を示す。颯太がシートの背に手をかけて大きく後ろを覗き込んだ。
「マック〜、おったんやぁ」
颯太が後部座席に腕を伸ばす。ドライブ用のハーネスをつけられて大人しく座っていたアメリカンコッカースパニエルのマックが、颯太に首元を撫でられて嬉しげに「わん!」と鳴いた。
同じマンションに住んでしょっちゅう顔を合わせているので、マックは颯太によく懐いているし、颯太の方もマックの扱いには慣れている。パタパタと嬉しげに尻尾を振るマックが颯太に撫でられている間、湊は車を出さずにその様子を見守った。可愛い愛犬と可愛い弟分の戯れる姿に、湊は、黒目がちの大きな目を機嫌の良い猫のように細めた。その湊の目に、後部座席の窓ガラス越しにもう一人の幼馴染の姿が映る。
「……あ、豊」
「え」
反射的に名前を口にすると、助手席の颯太が短く声を上げた。楽しげにマックを撫でていた指も止まってしまう。マックが不思議がるように「くぅん」と鼻で鳴いたが颯太は固まったままだ。
「あいつも乗せてったろか」
その微妙な反応に気づくより先に、湊はそう口にしてしまっていた。颯太の表情がかすかに曇る。さらに言えば、このタイミングで豊の姿が見えたということは二人は同じ地下鉄に乗っていた筈だ。それなのに一緒に帰宅してはいなかった。『ニコイチ』と言っていいぐらいしょっちゅう一緒にいる二人が、だ。
なんかあったんやな、とすぐに察したものの口にした言葉は消せない。どうしたもんかな、と考えたのは一瞬で、結論が出ると同時に
「颯太、このあとヒマか?」
と湊は颯太に問いかけていた。
「この後……?」
「ん」
「特に用事はないけど……。帰ったら、夕飯まで勉強しよと思っとったぐらい」
「真面目やな」
「受験生やもん」
自分の時を振り返り(……やっぱり真面目やな)と感心と感嘆を混ぜて思う。それは言葉にはせずに
「まあ、一日ぐらい息抜きしてもええやろ」
と告げると、颯太がマックから指を離して湊に向き直った。湊の言葉の意味を問うように小首をかしげる。クセのない黒髪がさらりと流れた。
「ちょお付き合うてや。ドライブ行こ」
「え」
「シートベルトし」
短く言って、返事もシートベルトも待たずにハザードランプを止めた。右ウインカーを出して後ろを確認し、滑るように車を発信させる。颯太がシートベルトを締めた音がカチャリと隣で小さく鳴った。
走り去りながら、湊はちらりとバックミラーに視線をやった。歩道の豊と鏡越しに目が合う。どうやら湊の車には気づいていたようだった。颯太が助手席に乗っていることに気づいているのかどうかは分からない。湊はすぐに視線を前方に戻した。
豊こっち見てたで、という一言は颯太に告げないままで車を走らせ、一つ目の信号を直進で通り過ぎる。二人の住むマンションに帰るには右折で大通りから住宅街に入る必要があった。
「ほんまにドライブ連れてってくれるんや?」
驚きつつもどこか少し嬉しげに呟いた颯太に「ん」と短く答える頃には、豊の姿は見えなくなっていた。
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