0人が本棚に入れています
本棚に追加
「わたし、おおきくなったらあいちゃんとけっこんするの。あいちゃんのおよめさんになってあげるの!」
「ぼくもけいちゃんとけっこんする!」
あれから10年と少し。僕は16歳になった。あの幼い約束は今でも頭に焼き付いている。病めるときも健やかなるときも、変わらず、ずっと。
*
「阿意君、おはよう!」
「お、おはよう。京ちゃん。その、今日も挨拶してくれてありがとう」
「なに言ってるのよ。幼馴染だし、クラスメイトだし、当り前よ」
そろそろジトジトとした空気が感じられる5月のある朝――
歩いて通える同じ高校に進み、高校2年生になった僕に京ちゃん――不破 京は子供の頃と変わらぬ満開の花のような笑顔を向けてくれる。だが、僕の返事は弱々しい。小さい頃はお互いの家が近く、母親同士の仲が良かったこともあってよく遊んだものだったが、残念ながら中学校は別々になってしまった。
僕こと鈴木 阿意は、そこでひどいイジメに曝され、すっかりと目標と自信を無くし、ひたすら目立たぬようにしてきたせいだ。
しかし、人生には絶望したものの、それでも希望があったから今まで自殺せずに済んでいる。その希望は、京ちゃんと結婚することであり、約束を果たすための責任とも言えるかも知れない。
そのような弱々しい僕ではあるが、京ちゃんと顔を合わせるたびに思う。それにしても綺麗だと。切れ長の目にスッとした鼻筋、そして透き通るような色白の肌。いわゆる瓜実顔に、肩まで伸びた艶のある髪のその漆黒に心を吸い込まれれば、その美しい彼女の笑顔を毎朝見られることに感謝をする。中学生の僕、自殺しないでいてくれてありがとう、と。
「おはよう、佐藤さん、田中さん。高橋君、おはよう」
彼女は人当たりも良く、クラスの皆に分け隔てなく、爽やかな花の匂いすら感じられる朝の挨拶をしていた。
学業も優秀だったが、天は二物を与えずとはよく言ったもので、運動神経はあまり芳しくない。でも、容姿端麗だとか、学業優秀だとか、超健康優良児だとか、皆の学級委員長だとか、そんなことはどうでもいいのだ。彼女はともかく僕の誇りで、どうしようもないくらい憧れでもあった。
「あの女、調子に乗りすぎよ。あいつ、私の高橋君に色目使ってるし、絶対、担任に体売ってるわ」
「う、う、噓つき! 京ちゃんがそんなことをするわけないだろ! 京ちゃんの悪口を言うな!」
「うえ、鈴木か……。気持ち悪ぅ」
だから、何と言われようとも京ちゃんを悪くいう奴は許さない。勇気を振り絞って注意するのみだ。
「鈴木ぃ! お前、不破と仲いいんだってな! 不破にフられてイライラするから殴らせろ!」
「ふ、ふざけんな! そもそも、お、お、お前如きが京ちゃんと釣り合うわけがないだろ!」
「なんだと、うらぁ!」
だから、理不尽な暴力に遭っても真っ向から立ち向かった。
「不破さんて血液型、何型なのぉ?」
「私はねぇ……」
「不破さん、なんか急に背が伸びた?」
「そ、そお?」
「髪型ショートに変えたの、凄く似合ってるぅ!」
「ありがとう!」
「不破さんて、昨日の朝ご飯は覚えてる?」
「えーっとねー。ご飯でしょ、ワカメのお吸い物でしょ、納豆でしょ、それから……」
だから、彼女のことなら何でも知ろうとした。仲の良いクラスメイトと話している内容を耳そばだててまとめた秘密のメモは、同じクラスになってからすでに3冊目だ。スマートフォンに挿した記録メモリも、こっそり撮影した彼女の写真で一杯になり、また新しいのを親にねだらなくてはならない。
「阿意君、おはよう!」
「お、おはよう。京ちゃん。その、この前の朝ご飯なんだけど、納豆にネギとか卵の黄身は入れる派? あ、あと、今日の血液型占い、良かったね」
僕の質問に彼女は一瞬怪訝な表情を浮かべたが、すぐに笑顔に戻り、「黄身もネギも入れないよ。ちなみにひきわり派」と答えてくれた。ああ、今日はほんの少しだけど京ちゃんと話せた。僕は幸せだ。
*
「えー、今日は不破さんと高橋君の二人は体調不良でお休みです」
梅雨も間近に迫ったある朝、ホームルームで担任が告げる。
通学の道で京ちゃんと会えなかったのはそういうことだったのかと思うと同時に、しかし、言い知れぬ不安が僕を包み込んだ。あの、超が付く健康優良児が病気などするはずがないと。
「先生! 早退します!」
「はあ? ……おい、待て鈴木!」
制止する声も聞かず、僕は一生懸命に走りだす。この不安を、悪い予感を紛らわせるために。
息を切らして、少し古いマンションに辿り着けば、メモに書いた記憶を頼りに彼女の部屋を目指して階段を駆け上がる。途中、何度か躓き階段に脛を打つも、僕の意志を妨げるほどにはならず、【不破】と書かれた表札を見つけることに成功した。
インターホンを押す前に、一度、深呼吸。呼吸を整え、丸い出っ張りのあるアイボリーのボタンを押し込む。
扉の向こうから聞こえるやや掠れた電子音。
それに反応はない。
もう一度、押し込む。
「……はーい、どちら様ですか」
弱々しい女性の声が、扉を抜けてくぐもって聞こえてきた。
「……あー、阿意君。ちょっと待っててね。今開けるから」
ガチャリとノブが回され、体を隠すように彼女は扉の隙間から顔を覗かせる。
「阿意君、どうしたの? 学校は?」
「あ、心配で様子を見に来たんだ。京ちゃんが、病気したことなんて聞いたことがないから」
話しながら彼女の様子を見ると、パジャマらしき服の上から前開きのニットカーディガンを羽織っているのが分かった。その足元は裸足で、玄関扉を開けるためにサンダルを履いている。
だが、ふと視線を外したその先の、男物のスニーカーに僕の心は酷くかき乱された。
「ただの風邪だから、そんなに心配しなくても大丈夫よ。わざわざありがとうね」
「京ちゃんがただの風邪で休むなんて、そんなハズないだろ。本当は何かあったんじゃないか? 事件に巻き込まれてるとかさ」
「そんなわけないから。……どうしたの? 阿意君、なんか変よ?」
「おかしいのは京ちゃんの方だ。君まで僕をバカにするのか。いいから家に上がらせてもらうよ」
「ちょ、ちょっとやめて、やめてよ、帰ってよ。お願い、……きゃ」
僕は京ちゃんを強引に中に押し込んで、そのまま家に上がり込む。チェーンは掛かっていなかった。こんな不用心なことでは誰が上がりこんでいてもおかしくはないし、既に中に立て籠もっているかも知れない。待っていろ、僕の京ちゃんを脅す悪い奴は、僕が見つけ出して懲らしめてやるんだからな!
そうだ、悪い奴と戦うには武器が必要じゃないか。そう気が付いて僕は台所を探して包丁を握りしめた。そこから部屋の中を見回す。玄関から台所に抜けた先が6畳ほどのリビング、通り過ぎてきたところにドアが閉められたトイレと風呂。リビングの右手にまた扉が二つ。早く敵を見つけなければ。
「ねえ、帰って! 帰ってよ! うぅ……げほ、げほ……。あなた、頭がおかしくなっているのよ! 本当に、本当に私以外誰もいないから、早く帰ってよ! うう、なんでこんなこと……」
悪い奴によほど怯えているのか、僕を守るために言っているのか。京ちゃんが泣きながら僕に早く帰れと懇願するが、泣いている彼女を見捨てられるはずもない。
だが、待てよと閃いた。
生まれてから一度として、僕は彼女の泣き顔など見たことがないし、ましてや頭がおかしいなどと言われたこともない。
ああ、そうか、そうだったのか。
僕はリビングの奥の部屋に行きかけていた体を彼女に向け直して、にこやかに語りかけた。
「本物はどこにいるんだい?」
「え? 本物? って何?」
彼女は訳が分からないといった表情だ。どうせそれも芝居なんだろう。
「本物だよ。京ちゃんはいつも笑顔で優しく声をかけてくれるんだ。頭がおかしいなんて言わないんだ。君は悪い奴の手先なんだろ? 本物はどこにいるんだい?」
「ちょっと何を訳の分からないことを言ってるの!? 私は本物よ。本物の京よ。見てわかるでしょ?」
彼女の表情が怒りと恐怖で歪む。ああ、やはり、こいつはどうしようもなく偽物だ。
「さっさと居場所を吐け。偽物め」
「ちょ、やめ……」
僕が強く押すと偽物は途端に尻もちをついた。そして、彼女が立ち上がる前に髪を掴みながら、床に仰向けに押さえつける。
「本物はそんな顔をしないんだよ」
「やめて……」
「本物をさっさと出せ」
「う、うう」
なかなか口を割らない偽物を、僕は包丁を握ったまま何度も何度も殴りつけた。そのたびに彼女は無様に呻き声を漏らし、涙を流し、自分は本物だと嘘をつき、そして命乞いをした。
京ちゃんが僕に帰れと言うものか、
おかしいと言うものか、
呻き声を漏らすものか、
こんなに顔を腫らすものか、
泣くものか、
命乞いをするものか。
そうだ。こいつは所詮、偽物なのだ。偽物なら壊してしまっても問題ないだろう。
二度と本物だと嘘をつかぬよう壊すなら、やはり首がいい。どんなアンドロイドでも宇宙人でも、首と胴体を切り離してしまえば倒せるものだ。この偽物にどんな色の血が、或いはどんな液体が流れているかは知らないが。
そうして僕は、ぐったりとして動かなくなった偽物の首に包丁を入れて深く切った。何が出てくるのだろうとワクワクしながら。
ところがどうだ。切り口からはとても熱くて、とても赤い、とてもとても人の血としか呼べない液体が吹き出し、彼女から色が消えてゆくではないか。
……ああ、そうか。僕は京ちゃんを殺してしまったのか。
しかし、大それたことをしてしまったというのに、どうして僕はこんなにも落ち着いていられるのだろうか。
……なるほど、リセットか。リセットすればいい。リセットすればセーブポイントからやり直せる。僕は京ちゃんを殺さなかったことにできるんだ。
確か、リセットは頸動脈を切ればいいんだったな。早速やってみよう。……恐いけど、でもやるしかないんだ。やるんだ。やってやるんだ。やってやるぞ。
……ぐ、ぐぁぁぁぅぎゃ、痛いいだだだだだい痛いいだい痛い痛い痛い!
首に当てた包丁の刃を強く押し込みながらスッと引く。
直後、言い表せない激痛が駆け巡るが、やがてそれも感じなくなり、僕はリセットされた未来にほくそ笑みながら意識を沈ませた。
*
「阿意君、おはよう!」
「お、おはよう。京ちゃん」
人のいない、二人だけしか通らない秘密の通学路で、京ちゃんが満開の花のような笑顔で挨拶をしてくれる。今度こそと、僕は願う。
そのときだった。
京ちゃんが大胆にも、正面から僕に寄りかかって来た。鼻腔を通り抜ける甘い匂いを感じたのも束の間。腹に激痛が走り、苦痛に顔をゆがめる。恐る恐る激痛の発信源を確かめれば、そこにはあの包丁が深々と突き刺さっていたのだ。
それを京ちゃんが捻り、手際よく引き抜くと、僕は前のめりに血の海にキスをする。
「今度は私の番よ」
薄れゆく意識の中、彼女の、京ちゃんの声が僕の耳に冷たく響いた。
〔完〕
最初のコメントを投稿しよう!