祖国

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祖国

驚きました。まさか此処で、あの国の方とお会いするなんて。それでは、この飛行機であなたは帰国されるということですか。 ああ、そうなんですね。海外赴任。それは大変でしたね。三年ですか。これはまた奇遇ですね。私も、この国には三年ほど滞在しました。 そうですか、商社にお勤めなのですね。素晴らしいですね。私ですか? 私は精神科医をやっておりまして。 それにしても、本当に奇遇です。あ、こちらの話なんですけどね。実は私の患者さんの中に、あなたによく似た人がいまして。似ているのは、境遇です。あの人も、あなたと同じ国の出身でした。 彼は、ちょうど今のあなたのように、海外赴任を経て飛行機に乗り、祖国へ向かおうとしました。 海外赴任って、想像していたよりも過酷だったみたいで。家族と離れ離れになる寂しさ、言葉の通じない環境、異文化。それらは彼の心を簡単に病ませてしまいました。 だから彼は、帰国の途に就くその日を心待ちにしていました。 数十時間の長旅を経て、間もなく機内の窓から祖国の地が見えるという頃でした。 機内のアナウンスで、彼は全く聞き覚えのない国名を聞きました。 まさか、飛行機を乗り間違えたか。いや、そんな筈はない、チケットは会社が手配してくれたものだし、それは自分でも何回も確認しました。 彼はもう一度、背広のポケットからチケットを取り出しました。そのチケットには、先程の機内アナウンスから伝えられた国名が記されていました。 やはり、祖国ではない。知っている国ですらない。 彼は慌てて機内を見渡しました。 乗客達は皆、祖国の人とは遠くかけ離れた容姿に見えました。 祖国の人を探そうとすると、彼はまた混乱しました。 機内の乗客達が、異国の人達であることは分かります。しかし、同郷の人の容姿を、どうしても思い出せないのです。どんな姿の人達が、どんな服を着て、どんな物を食べ、どんな建物に住み、どんな、言葉を⋯⋯。 そこまで考えて、彼は思考を止めました。 今、その思考に使っていた言葉は、何処の国の言葉? 彼の子供や妻の名前は? 彼の名前は? ⋯⋯彼は? 彼は誰? そうです、今のあなたのように。何処の誰とも分からぬ精神科医の話を聞いて、汗をかいて青ざめて震えて。彼も、そんな様子でした。 ところで、あなたのお名前は? ⋯⋯さぁ、到着しましたよ。私はこれにて失礼します。あなたに会えてよかったです。私は物覚えが悪いので、その内に名前も分からないあなたの事は忘れてしまうでしょうけど。 どうかお元気で。 さようなら。
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