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ぼー。と、わたしはテレビを見ている。
テレビの中で、カッコウは無害なオナガの巣に卵を産みつけた。
けれどもカッコウは知らなかった。オナガは長い時間を経て、自分の卵とカッコウの卵を識別できるようになっていた。
オナガだけじゃない、ホオジロも自分の卵とカッコウの卵を識別し、ヒナが孵る前にカッコウの卵を破壊する。
未だに托卵のターゲットにされているヨシキリもモズも、いずれ気づいて他の鳥たちと同様に、托卵されても気づくように進化してくのだろう。
画面が変わる。
親鳥が巣から飛び立ち、取り残されるカッコウのヒナ。
ヒナが孵った時点でも親鳥が托卵に気づいて、育児放棄するケースがあるのだとナレーターが説明する。
抵抗手段を覚えた親鳥たちとカッコウの攻防。
やがてカッコウは、新しいターゲット先を探すようになるのだという。
永遠につづくイタチごっこ。
どちらが先でどちらが後か、どちらが卵でどちらが親か、決着はもしかしたらつかないのかもしれないとナレーターは締めくくった。
「…………」
息子を寝かしつけて、居間で一息ついていたわたしはテレビを見ながら、これからのことをぼんやりと考えた。
「あなた、祐樹を産んでから変わったわね」
母がそう言って、湯呑をわたしの前に置いた。
「そうかな?」
「そうよ。前のあなたなら、ニワトリとかサギなんてシャレのきいた言いまわしなんてしないで、無言でじっと突っ立ったまま、わたしが来るまでなにしないに決まっていたから」
そう言いながら、母はテレビ画面を遮るようにわたしの前に座る。
「……そうね。昼間、ゆーくん、うまれちゃ、ダメだった? って言われて、頭が真っ白になって、心臓の辺りがぎゅっとなったわ。それになによりも、自分が感じる痛みよりも、この子のために自分になにが出来るのかって、そっちの気持ちの方が強かったの」
そうだ。わたしは変わった。本来のわたしは自我も感情も薄くて、知力は人並だったものの五感の感覚が極端に鈍かった。目の前の現実に、いつも透明な殻が覆いかぶさっているように思えて、学校も受験も就職も見合いも結婚も、そして妊娠も、なにもかもが遠い出来事のように感じられた。
すべてが変わったのが、祐樹がわたしの前に現れたときだ。
ぐったりと横たわるわたしのすぐ横で、母を呼んで泣き叫ぶ赤子の声を聞き、わたしを覆っていた殻が、卵のようにあっさりと壊れた。
世界に色がついて
音が明瞭になり
病院の匂いを嗅ぎ
産後の痛みが下腹部を突き上げて
口の中に苦い味が広がり
赤ん坊の柔らかな頬に触れた瞬間、わたしの頭の中で白い光が弾けて心臓が大きく脈をうつ。
わたしは、この子のお母さんとして、この子によって生まれてきたのだ。
そう確信したら、体中からお湯のように暖かい力があふれてきて、なんでもできるような気がした。
――この子の幸せのためなら、なんでもできると。
「本当にあなたは母親になったのね。あなたが祐樹を連れて、この家に住まわせてほしいって土下座した時は、本当にびっくりしたのよ」
わたしたちは、はじめからオシドリ夫婦になれなかった。わたしの夫だった孝彦さんは、自称起業家で、毎週怪しげなセミナーを開催して家に帰ることはあまりなかった。
「どうしたのって、あなたから話を聞いたら孝彦さんの浮気相手が、家に押しかけてきて刃物を振りまわして暴れたって言うじゃない。だから逃げてきたって言うし」
浮気相手の女性は、カッコウのように美しい声で汚い言葉を吐いた。
――私の子供を返して!
そう言って、わたしを脅したけど「最初から全部知っているわ。だけど、それがどうしたの? 血のつながりなんて些細な問題よ」と言い返した。
最初から知っている上で、なおも揺るがない息子への愛に、彼女は恐怖を覚えたのだろう。浮気相手は、バックから刃物を取り出して暴れだしたのだ。
「お父さんと確認したら孝彦さんも浮気を認めて、向こうの両親も大激怒……こんな、ドラマみたいな非常識な展開なんてごめんよ。大病院を経営している家だから、安心したこっちがバカだったわ」
おそらく、結婚すれば放蕩息子が落ち着くと思ったのだろう。
義両親は孝彦さんが、まさか医院長の息子の立場を利用し、浮気相手の子供をわたしに押しつけようとするなんて、想像がおよびつかないはずだ。
病院で倒れて意識が混濁していたわたしに、横で好き勝手にコウノトリになったつもりで計画を語る二人は、わたしが二人の会話を聞いているとは思っていない。
わたしのそこで知ったのだ、わたしの本当の子供が死産だったことも、わたしがもう子供を産めないことも。
「まったく時間が経つのは早いわよね。あんなによちよちしていた祐樹が、もう幼稚園に通っているなんて。気付いたら、次は小学校、もしかしたら成人式かしら」
感慨深げな母の言葉を聞きながら、わたしは、オナガのようになにも知らない父と母を騙し続ける覚悟を固める。
詐欺師はわたし、浮気をあっさりと認めつつも、自分のしてしまったことを開き直ることも出来ず、かといって祐樹の出生を打ち明ける度胸もない軟弱なチキン野郎は孝彦さんだ。
彼の誤算は、わたしの性格が変わって托卵した子供に愛情を注いだこと、そして、自分の罪悪感に耐え切れなくなってしまったことだ。
まるでハシビロコウのように、なにを考えているか分からない妻が、赤ん坊が生まれたことで母性が芽生えてよき母親となった……なるほど、美しい光景だ。
「けど、平和すぎて不安よね。あの浮気相手の女……まだ捕まっていないんでしょう? なんだか忘れた頃に現れそうで怖いわ。もしかしたら、孝彦さんが匿っている可能性もあるだろうし」
おぉ、怖いと、母はアヒルのように身を震わせてそわそわしだすと、わたしは視線を落として湯呑の水面をのぞき込む。
そういえば、彼女の名前を忘れてしまった。
冷たいかもしれないが、わたしにとってはその程度の存在だ。
「お母さん、それは考えすぎよ。罪を犯した浮気相手を匿っているって、それこそドラマみたいじゃない。彼にそんな度胸あるかしら?」
孝彦さんと義両親とは、もう三年ぐらい会っていない。
最低限の連絡は交わしているが、義両親は猛禽類のように辛抱強く、執念深く、わたしが態度を軟化させるのを待っている。
「向こうの家が祐樹のことを諦めて再婚を考えてくれたら、ちょっとは安心できるのだろうけど。そうなったらそうなったで、あの女のターゲットもわたしたちから再婚相手にうつるでしょうし。ちょっと複雑ね」
「……その前に、ちゃんと離婚できればいいんだけどね」
わたしの足場は薄氷だ。もし、孝彦さんが托卵したことを白状したら、血の繋がらないわたしと祐樹は引き離される。
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