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誰かが歌っている。
静かな森の翠の中で、細くのびる声。自然の一部であるかのように周りの音と調和している。この森に住んでいると、時々聞こえてくる歌声だった。どこの国の言葉だろう。聞いたことのない言葉だ。滑らかなリズムと独特なアクセントで美しく響いている。私はその可憐な歌声に惹かれて、今日こそは歌声の主に会おうとしていた。
私には、この森に住む前の記憶がない。誰が親なのか分からないし、何のためにこの場所へ一人でいるのかも分からない。屋敷に住むのは私とお手伝いの女の人だけで、その女の人でさえ身の回りの世話をしてくれるだけで知らないことも多い。
足元に見える草花を踏み分けながら、歌が聴こえてくる湖がある方角へと歩み始めていた私は、もうすぐ誰かと会えるのではないかと心が弾んでいた。
しばらくして湖にたどり着いた。青く澄んだ水面に黄色い陽の光が反射している。私はそこで初めて、自分と同じくらいの年の少女が踊っているのを目にした。
「~~~ラララ」
聴こえてくる歌声の主だった。白いワンピースの裾を風になびかせながら、水面の上に裸足で立ち、歌い、舞っている。
「…きれい」
思わず声に出た。絵画の中から飛び出てきたかのような立ち姿に、私は見とれてしまった。陰から覗いている私に気にも留めず、少女は踊り続けている。細い指は天まで届きそうな程真っ直ぐ伸び、爪先は氷の上を滑るようになめらかに水の上に乗っている。
ふと、少女が私の方を見た。動きをやめて、近付いてくる。躊躇うことなく土の上も裸足で歩く彼女は、私の目の前に来ると立ち止まった。そして、じっと目を見つめてきた。
「……ラナ」
か細い声でその単語を口にする。
「初めまして。それがあなたのお名前?」
少女は何も答えず、ただじっと見つめてくる。
私は徐々に、彼女の紺碧の瞳に吸い込まれる心地がしてきた。彼女が纏う独特な雰囲気に呑まれてしまっていた。
気付いたら私は少女に手を引かれ、駆け出していた。目の前にすぐ湖が広がっているというのに、止まらず前へ進む。思い返すと、なぜ最初に不思議に思わなかったのだろう。沈むことなく自由自在に湖上をなめらかに滑り、舞っている姿を。私は少女に導かれるまま、ついに湖上に立った。
もう一度、少女が振り向いて言った。
「ラナ」
「ラナ。あなたのお名前なのね?そう呼ばせてもらうわ」
一瞬、小さく首を縦に振ったように見えた。
私がこの離島で出会った人は数えるほどしかいない。それに、誰かと話して仲良くなるなんてできやしなかった。ずっと一人でただ広いだけのお屋敷に住み、一生そこで夢も希望もなく過ごしていずれ死んでいく。それが私が生きる理由だと、当たり前のように思っていた。
だけれど、今日、ラナという少女と出会い、こうして二人で踊っている。肌に触れるそよ風が心地よかった。ラナは慣れた足の動きで湖上を滑りながら歌う。やっぱり、ラナの歌は何語なのかわからない。
「どこに住んでいるの?」
するとラナは、細くて白い指を湖の向こうに差した。この島の向こうは一体どんな町なのだろう。本で読んだ話では、外の世界はとても広くてたくさんのものがある、賑やかな場所だった。今まで叶わなかった夢の世界だ。いいな。少しだけ、ラナのことを羨ましく思った。そして、この子と友達になりたいなと思った。
急にラナは私に背を向けた。もっと遠い場所へと駆け出す。足元では小さな水しぶきが跳ねている。気がつくと、ラナの足はほとんど水面に付いていなかった。妖精であるかのように宙に足を浮かせ、水面と平行に滑らかに移動している。美しく幻想的な光景とは裏腹に、ラナの表情はどこか憂いを帯びていた。その後、私は信じられないものを見た。ラナの背に真っ白い立派な羽ができ、全身が白い毛で覆い尽くされそうになっていたのだ。
「……待って」
私は焦った。初めて出会い、友達になれるかと思った少女と今、お別れしてしまうのではないか。そして、もしかしたら、私もこの人間の姿を捨てるべきときが来たのではないか、と。一人で抱えきれない焦燥が更に加速し、私は自らの衝動を抑えることができずに、ラナに続いて走り出していた。見える世界がさっきまでと違った。湖の周りに茂る草花が一際生きて見える。小さな自然の奏でる音が耳に入る。集中すればするほど意識は遠のいた。同時に、自然に身を委ねるのがとても心地よく感じた。ラナのもとまで近づく。隣には、もう一人の少女の姿はなかった。1羽の白い鳥が、今にも飛び立とうとしていたのだった。傷のない綺麗な白鳥の姿に見とれていた私は、声をかけようとして、更に異変が起こっているのに気付いた。伸ばした手が、白い羽毛で覆われていたのだった。足下を見る。水面に映るのは、全身真っ白な1羽の白鳥。信じられず、助けを求めようとラナに視線を送ったが、全てを知っているような黒い瞳で見つめるだけだった。
「行こう」
ラナの言葉が初めて理解できた。そして、ラナは飛び立つ。私もそれに続く。邪念を全て吹き飛ばし、広い空へ羽ばたく。蒼の中に飛び込んだ私が目にしたものは、もう、何事にも縛られない自由が広がるだけだった。
ラナは振り返り、微笑んでいた。
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